Yuki talks spirit...
〜ゆ う が 語 る 心 霊〜
「霊能者」
◆はじめに
私の手元に一冊の本があります。
昭和61年に「財団法人日本心霊科学協会・以下、(財)日本心霊科学協会と略」
より発行された「吉田綾 霊談集・下」です。
私はこの本をネットで知り合いった霊能者の方より拝借しました。
ご存知のない方のために説明しますと吉田綾師は(財)日本心霊科学協会に
その人ありと知られた昭和の大霊能者(故人)でその人柄、また霊能力において
も他の追従を許さず、また現在活躍されている多くの優れた霊能者の師として
尊敬をいまだに集めている方です。
その霊談集の内容は、吉田綾師の相談者に対する答えなどの言葉の記録、
また、師が霊界について霊視された内容が平易な言葉で心霊についての系統
だった知識がない私にも大変分かり易く綴られています。
特に感動的なのは、言語学者をして唸らせたという万葉かな・雅語で綴られた
霊歌により、あの世の理を詠った膨大な数の顕幽歌集です。
下の歌は特に私が好きなもののひとつです
みそかみち われはいゆかじ つるぎなす
もろはのとぎを よしゑふむとも
[大意:いかなる誘惑があろうと、人の道に反した不徳の道は行かぬ
たとえ鏡の如く研ぎ澄ました諸刃のついた剣の上を踏むような苦しみがあっても]
心霊について語る時、しばしばそこに暗く怪しいイメージを人は思い浮かべ
好奇と恐怖の対象として取り上げられる事も少なくありません。
私がこの霊談集にみたものは、いわば人としての生きる道、ともすれば見失い
がちな常識、人生の指針のようなものでした。
「心霊」に対する誤った認識、また心霊を語る者の代表として「霊能者」があり
ますが、その霊能者からしていわくつきで世間で語られる事に対してのもどかしさ
を感じていましたが、これからお話する事は真実の霊能者の姿であろう事を
私は願ってやみません。
◆本物は、いるところにはいる。
過日、吉田綾師の直弟子にあたられるU先生にお目にかかるという得難い
機会を得ました。
アメリカ在住のU先生は、現在は引退をしておられますが、私の知人の霊能者の
お師匠さんです。U先生が来日するにあたって、全国のお弟子さん
方がU先生にお目にかかりたいと願い、それに応えて御高齢にもかかわらず限られ
た滞在期間中、全国各地を精力的に移動されておりました。
それらの貴重な一日のある日、突然U先生にお目にかかれるという幸運に恵まれ
ました。そして、「霊能者」たるものとしての心得、何たるかを雑談の中ではありますが
真理に満ち溢れた言葉の数々を私は伺う事が出来ました。
そして、私がかねてより考え、理想として掲げていた「霊能者」というものの姿が
はっきりと形になって心の中に表れ、それらが、間違いではなかったと確信しました。
それを私なりの言葉で、必要としている誰かに伝えるのが、今の私のU先生に
お目にかかったせめてものご恩返し、誠意というものでしょう。
今回お話する事は、私が感じ取った全てではありません。人が学び、知るべき
事は日々変わりながら、また増えていくものです。霊能者を語る時の、いわば
ダイジェスト版とお考えください。
◆もっとも、大事な事
霊能者の在るべき姿として、最も大切な事。それは、自らに与えられた霊能を
金銭を得る為の手段としてはならないという事です。
よく、霊能者に限らず、霊能者とは医者のような仕事をしているのだから、謝礼を
もらって当然であるという考え方をする人もいます。
しかし、医者と霊能者を同列に語る事は私はナンセンスであると考えます。
医者は法治国家のこの日本では、国家資格として認められた者にのみ免許が
与えられた時にはじめて医者を名乗る事が許されます。そしてその資格は法律で
庇護されると同時に法律で定められた範囲で職業上における各種の権利を持ち、
そしてその資格相応の責任と義務も生じます。
実際には医師の中にもその技量・人間性に疑問を抱く人もいますが、事実として
まず、定められた試験を経て、それにパスした者だけに、医師の資格が与えられます。
霊能者は、看板をあげた瞬間から、霊能者です。医師免許のように個人の資質、
技量を客観的に判断する材料はなく、口コミや、「あたる」という評判のみが
巷の職業霊能者を支えているといっても過言ではありません。最も、評判が
あがらなければ、職業としては成立はしません。さて・・。
ここで、間違ってはならないのは、霊能者は、心=霊を扱う者であるという
事です。私が問題にしたいのは、形にならない「心」を扱う者が霊能者である。
そして、霊能者とは、霊界と現世を繋ぐ窓口の役割を持ち、奉仕する者である
と思っています。奉仕の精神を掲げた行為に金銭という形の謝礼は不要です。
例えば、問題を抱えた相談者が霊能者によって、問題が解決したとします。
霊能者としての喜び、誇りはその瞬間です。そして、問題が解決した相談者の
喜びに満ち溢れる言葉や表情、感謝の心がなによりの次の仕事への糧となる・・
と言っても叱られはしないと思います。
私が間接的に存じ上げていたS先生も、霊能相談によってお金をいただくと
言う事は決してありませんでした。S先生は、一昨年80余歳で亡くなられましたが
激しい戦火をくぐりぬけ、目の前で何人もの人が簡単に死んで行く姿を戦場で
当たり前のように目撃されたといいます。
また、ご自身も戦闘により負傷した事により片足は不自由ではありましたが、風邪
一つひかれず、同じお年の方と比べても若々しいまでに肌は艶やかで、亡くなら
れる寸前まで大変お元気でした。
S先生の場合は、生活の糧は、ある日若い頃にふと思い付いた事で特許をとり、
その特許料が入って来たので生活の心配も全くなく、また心霊相談には、一切の
謝礼を受け取る事をせず、御高齢にもかかわらず、例えばアメリカに呼ばれて
心霊相談に赴いたりなど、並の会社員よりも多忙な毎日を送っていらっしゃい
ました。
S先生の場合は男の方ですが、その姿は太陽のように優しい眼差しを
相談者に常に向けていたと聞き及んでいます。
霊能者は、誰にもまして人格者でなければならないという見本のような方で
あったといいます。
が、実際、霊能者たるもの、そんな当たり前の事ですら忘れられて、しばしばエキ
セントリックなイメージで一括りにされて語られなければならない事が、私には残念
で仕方ありません。
それは、一部のいわくつきの「霊能者」が自己を演出し、誤ったイメージを世間
一般の心霊に関心のない人にまで与えているからに他なりません。
また、そういう人に限って、そのような演出を好み、その効果に満足しているようにも
見受けられます。霊を好奇と恐怖の対象として、あるいは遊びや楽しみの対象として
とらえている人にとっては都合はいいかもしれませんが、霊というものを真摯に捉え、
人生を歩いている人にとっては、全く迷惑な事でしょう。
ところで、霊能者を自認する人の中には、霊能は厳しい修行の果てに得て
その霊能力と引き換えに犠牲にしたものが数知れずあるという事を言う人がいます。
霊能力と引き換えにしたもの、犠牲・・・?それはなんでしょうか。
人として生まれた来たからには、人としての役目があります。その過程が
どんなに厳しく辛いものであるとしても、それは自分自身が人生を歩いてきた
道程の「糧」になりこそすれ、「犠牲」ではありません。
それらの困難な自分自身の人生を語り、だから、他の仕事を選ぶ事が出来ず
これを仕事にしているというのは、本人の人間としての怠慢を語る事で、私には
大変恥ずかしい事だと思えます。なによりも、自らの人生における様々な試練を
「犠牲」であると考える事、その様な人に霊能力を駆使する資格はないと思います。
考えてみてください。現代の日本においては、職業の選択は自由です。
インドのカースト制度のように生まれながらにして、そのカーストの抱える職業
にしかつけないという社会ではあるまいし、ある程度の努力によって、自らの道を
切り開く事は十分可能です。
他に何も出来なかったから・・・というのは、言い訳にすぎません。他に何も
出来ない人が果たして相談者の心の機微を本当に感じ取る事が出来るでしょうか。
世間知らずの霊能者が、現代社会に疲労し、霊的な問題を抱えた相談者に
対してその悩みを真に受け止め、わかるといえるでしょうか。
純粋である事、イコール世間知らずではありません。そして、霊能者は神でも仏でも
ありません。
霊能者もまたただの人間にすぎず、自身の悩みと葛藤の中で磨かれていくもの
ではないでしょうか。もしも、神の代弁者を名乗りながら、限りなく自分は神仏に
近い存在であると吹聴する霊能者がいたとしたら、それは、まがいものです。
また、厳しい修行とはなんでしょうか。
滝に打たれたり、真冬に凍えながら水垢離をしたり寺社仏閣を経巡り歩く事を
延々と倦む事なく続ける事でしょうか。
私は仏教徒を自覚していますから、お経には馴染みがありますが、社会と断絶
した環境でお経を詠んだり座禅に励んだりする事が必ずしも修行になるとは
考えません。それは、僧籍を目指すためには、各宗派、系統だったしっかりとした
宗門の教えが存在しますから、それは別として。
むしろ、それは、今ある問題からの逃避の行為の場合もあります。
霊能があったから人からは変な人といわれ、寂しい青春を送った、また望むような
人生をうまく歩けなかった、他に出来る仕事がない、霊能者とは孤独で辛い作業
である。時には肉体を酷使して、霊と対決しなければならない・・・などなど。
それらは、形を変えた選民意識、根拠のない歪んだ優越感の表れです。
私だったら、そんな人生を送った人に自分の問題を託そうなどとは考えられ
ない事でであると思います。
修行とは、日々の生きる上で一日一日をしっかりと誠意を持って生きる事、
これが一番大事なポイントであると思います。
ですから、霊能者が時には自己の向上の為に一般に私達が想像できる「修行」を
したとしても、それはあくまでも補足手段であって、決して目的ではありません。
霊能者として一番重要な事は、常識を持ち、誠意を持って常に「在り」、「成る」という
努力を怠らない事なのです。
そして、与えられた霊能力(これに関しては、説明不足を否めませんが)を
金銭に換えた時点でどのような理由をつけようとも、魂を売り渡したに等しいと
私は考えていました。
そのような霊能力者の元には、それにふさわしい人が集まるでしょう。
先般U先生にお目にかかった際、U先生が強くおっしゃった、
「心霊を金に代えてはならない」
この言葉に私は強く同感しながらもあらためて深く感銘を受けました。
現在引退されたU先生は多くのお弟子さんを持ち、現役の頃はひきもきらず
相談者が週に何十人と訪れましたが、U先生はあくまでも無償の奉仕の精神を
貫かれました。
そして、U先生はその師であられる故吉田綾師同様、御高齢にもかかわらず
大変、お元気です。
◆この項続く
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