Yuki talks spirit...
〜ゆ う が 語 る 心 霊〜
「霊で遊ぶ事の愚かさ」
◆霊とは何か?
ここで問題になるのは、「霊」とは何かということに尽きるといえましょう。
私が自分の経験を通して感じ、理解している霊とは「心の働き・状態」である
という事です。人間が人間たる所以は、「心」の存在に依ります。
人の痛みに鈍感な人、人を傷つけるような言動をなんのためらいもなく出来る
人を「あの人は、心無い人だ」とか「それは、心無い行為だ」と言い表わします。
また、それらの人を喩えて「鬼畜にも等しい」とも表現する事があります。
つまり、人間とは心を持つものであるという前程があって初めて語られる
ものであるといえるでしょうか。
そして、その心の状態は一定である事は珍しく常に流動的です。
私は懇意にしている僧侶の方から教えられた「人は在るのではなく、成るのである」
という仏教の基本かつ根本的ともいえるこの視点(考え方)に触れた時、その分かり
易さとそこに含む真理に感動した事があります。
そして、心霊というものが自分にとってのライフワークであると自覚した時に
「心も在るのではなく、成るのである。」という事に気がつきました。
心=霊である。こういうと、眉を顰める人もいるでしょう。
この事を私は借り物でない自分の言葉で、また、自分の物として皆さんにうまく
伝えられるかどうかは今後の私自身の努力と心の成長いかんに罹ってきますが
今現在、私自身の経験から知り得た事と私が「あちらの人」と呼ぶ人々の助けを
借りてなるべく分かり易くお話できればいいと願っています。
◆霊(心)を弄んではならない
誰もが善良であろうとする時に容易に思い当たる事が、「人の心を玩具にして
遊んではならない」という事です。実に分かり易く簡単な事のように思えます。
そこで、この「心」の部分を「霊」に置き換えて読んでみてください。
が、霊がすなわち心の働き・状態であると理解できないとこれがなかなか難しい。
霊とは、死んだら直ちに霊という存在に成るのではなく、生きている私達自身が
元々、霊的存在であるのです。
敢えて違いを見出し、一言でいうならば五感を感じ取れる「肉体という衣」を纏って
いるかそれを脱いでしまったかという事でありましょう。
さて、霊的存在である私達が死んだ後。
肉体という衣を脱いで自由になった時、生きている時は生まれた家柄や育った環境
そして、努力して得た社会的地位や財産、肩書き、容姿など人の目に映る分かり
易い事象により評価されていた物はとりあえず必要でなくなります。
霊界において評価されるのは、どのような状態の霊であったか、成るように努力
してきたかという、人として生きて来たコアの部分が問われます。
(ここから先の話は、いずれ語る事になるであろう別の項目に譲るのでこの程度に
留めておきます。)
さて、霊になったあなたは自分(霊)を誰かから、つまり生きている他人から
干渉され、騒がれたいと思いますか?
たまたま死後、霊になったあなたが一瞬行き場を見失って佇んでいたとします。
その時に霊を感じるという誰かがあなたの存在に気がつき、「幽霊が出た!」と
騒ぐ。そして、面白おかしく他人に話しているのをみて、愉快に思うでしょうか。
霊を弄ぶという事は、そうした行為に他ならないのを充分自覚して欲しいと思います。
よく聞く言い訳として、
「幽霊=怖いもの。怖いものや話しを趣味として楽しんで何が悪い?」
という意見もありますが、霊になったあなたが人の話の種になるのは楽しい
事でしょうか。しかも、あなたを誤解して「低級霊」だといわれたらどうでしょう。
この辺りの事を想像して、自分の事として捉えてみるとその行為の哀しさ
愚かさがわかっていただけるのではないかと思います。
「霊」を遊ぶ事は、すなわち心を遊ぶ事に他ならない・・・。人として真摯に人生を
考えていく、あるいは生きていきたいという人ならば、霊を弄ぶ事は厳に慎む
べき事であり、人としてするべき行為では絶対にありません。
◆「低級霊」と「高級霊」
心の状態は常に流動的でその状態が一定であるのことは珍しい・・と先に
述べました。これは、自分の感情の起伏を思い出してみるとわかりやすいかと
思います。一年365日、人は自分の胸に湧き上がる喜怒哀楽の中で暮らし、
時にはその感情を持て余すことも少なくありません。
そうした中にあっても常に心の成長を意識して心がけていけば、トータルとしての
心の状態はどんなシーンにおいても、人それぞれの経験から積み上げられた
分別によって、次第にある一定のラインを保つ事が出来るようになります。
これは、私自身が自戒を込めて常に自分自身に言い聞かせている事ですが
善良であろう、誠実でありたい・・・そう願いそれにふさわしい行動をとる事に
よって次第に身に付けていけるものであると信じています。
霊とは心の状態であると言いましたが、霊の成長にこれでお終いということは
並みの人間にとってなかなか有り得ない事なのですね。
霊が語られる時、それが「良くないもの」であるとか、「悪いもの」あるいは
低級霊と言い表わす事があります。
しかし、よく考えてみると全ての霊をひっくるめて低級だとか高級だとかを
論じるのは霊にとって大変失礼である様な気がします。
何故ならば、低級、高級・・・といった比較の表現は、
「では論じる人の霊性は一体どうなのか?」
と問われたら自分はこれこれこういう行いをずっとしてきたから
この辺の位置にいるのではないかと勝手に決める事が出来ないのです。
話は少々飛びますが、人には必ずその人を見守り導く霊が存在します。
その人達は・・・高級なのでしょうか、それとも低級なのでしょうか。
実は、生きている私達の状態にふさわしい霊性の持ち主が自然に集まって
来るものだそうです。
生きている私達の持つ人格ならぬ霊格に応じた「あちらの人々」が常に私達を
見守り、困難に直面した場合には無意識のうちに事態を回避できるように働きか
けてくれています。
あちらの人達の手助けを充分に受けられる事こそが険しい山河にも喩えられる
困難の多い人生をあたかも平坦な道を行くがごとく歩いていける事に他なりません。
ところで・・・。私は普段、ぼうっと呑気にしているのを自覚しています。
しかも、大して重要でもない事やろくでもない事ばかり考えて、その考えにしばしば
躓きぐるぐる回る事も多くなかなか情けない自分というのを承知しています。
しかし、ひとたび何か事が起こるとまるで「人が変わったように」行動しますが、
これも私自身に影響を及ぼしていると思われる処の背後の霊の働きかけでは
ないか・・・と思っています。
私の場合、特に仕事に対する行動ではそれが顕著に表れます。
殆ど眠ってばかりいるような日常。よく言えば物事に動じない。悪く言えば
おおざっぱな性格だと思っていますが、これが仕事の場面では人も舌を巻くほど
雄弁になり、仕事に対する態度は慎重かつ緻密になりものすごい集中力で望みます。
しかも、その状態が私にとっては大層気持ち良く、一度集中するとかなりの長時間
持続する事が出来るのが我ながら不思議で仕方ありませんでした。
これは、仕事に関しては自分の好きな事をやっているわけですから、もちろん
私自身が努力して力を培ってきた事もある事はあります。が、恐らく私の
背後の誰かが私に持てる実力以上のものを発揮できるように手助けをしてくれている
のではなかろうかと考えています。
そうして、その結果が自分の評価となってついてくる訳ですが、その評価を維持
するためにさらに他人にはわからない見えないところで自分自身に様々な
投資をし努力を怠らない様心がけるという良い循環がうまれます。
霊を低級・高級と評価する以前に、自分自身がどうありたいかということが
結局自分自身の霊性・霊格をより高めるものであると私は理解しています。
ですから、何かを見て「これは、低級霊だ!」と悪戯に騒いだりするのは
自分自身がそれだけの人間なのだ・・・と突きつけられている事であると
戒めを持って常に忘れてはならないと自分に問い掛け考えています。
「類は友を呼ぶ」「朱に交われば赤くなる」昔の人はとても良い諺を残して
現代に生きる私達に示してくれていますね。
先人の知恵に学ぶべき事柄であるといえるでしょう。
◆コックリさんで遊ぶのは止めよう
今時、まさかコックリさんで遊ぼうと考える大人は・・・さすがにいないと思いますが、
小・中学生の一部でまた、コックリさんが密かなブームになっていると聞きました。
私がティーンエイジの頃、どこから発生したのかは定かではありませんが
キューピットさんという簡単な交霊と称する遊びが大流行した事があります。
「コックリさんは狐だから危険であるがキューピットさんは天使の使いだから安全」
という友人の言葉に乗せられて恥ずかしながら私も荷担したことかありました。
心霊に関して、全く無知だった子供だったとはいえ、言い訳のしようがありません。
この事は、私の人生最大の汚点です。
霊感が強くはあったが自分自身に無自覚だった当時の私が、いかに名前や
形態を変えようとも無防備に交霊をしてしまった結果は、ろくな事にならなかった
のはいうまでもありません。
当時、年令に応じて大人ぶっていましたがつくづく子供だったのを感じます。
コックリさんの発生についての詳細は知りませんが、後年、太平洋戦争に関する
ある本(ノンフィクション)を読んでいた時、一兵士の提案でコックリさんを行い
戦況や勝敗の行方を占うという記述がありました。
明日をも知れぬ命の灯火を抱えている状況下、コックリさんで我が命と祖国に
残された家族が生きているのか死んでいるのかを占う・・・・。
それが大変哀しく印象に残っています。
それに引き換え、一時的にせよ、私は友達に誘われるまま霊を遊んでしまった。
ばかな事をしたとつくづく反省をしました。
話がはずれましたが、日本では百物語などが古に語られていた事から
コックリさんの形態を取った交霊実験の類い・遊びの出現はそう最近の事では
ないと思います。
さて、私自身の下らない、しなくても良かった経験から言えるのは、コックリさんなど
に出現する霊にはろくなものがないということに尽きます。
「低級霊」と「高級霊」でお話したように、現れる霊はその時の自分に応じた
程度の霊が興味を示すだけであって、神霊や高級祖霊などが現れる事は
皆無であると断言します。
コックリさんは自己暗示だとか自己催眠により動いているのだという解釈を
する人もいますが、私の場合はきっちり霊が現れ生きている私達が知り得ぬ
事実を的確に「当てた」のが災いしました。
しかし、コックリさんの答えが次第に怪しくなり滅茶苦茶になるに至って
私達はコックリさんに遊ばれている事に気づきました。
私は霊界からお仕置きを受けた程度で済みましたが、新聞や週刊誌などの報道
では当時この遊びで精神に異常をきたしおかしな言動をするようになったり、
暗示に依る事故にあったりと全国的に問題になりました。
ゆうの恥ずかしい過去を白日の下にさらけ出す事になりますが、敢えて
体験者として警告します。
「コックリさんはやめよう」
しかし、おかげで私は霊に対して慎重に臨むようになり目に見えるものや
聞こえる声のみにとらわれない姿勢というべきものを学びました。
そういう意味では苦い体験ではありましたが、貴重なケースを自分自身で
体現する事によって得られたものは多く、石橋を叩いてもなお且つ渡らずに様子を
見ながら行くという現在の私が育ったともいえます。
が、結果はどうあれ若気の至りから馬鹿げた事をしたと臍をかんでいます。
◆この項続く
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