Yuki talks spirit...
〜ゆ う が 語 る 心 霊〜
「恐るるなかれ」「本質を見よ」
これは、私がしばしば私の背後の存在から聴く言葉です。例えば、二つの
道のうちどちらかを選択しなければならない時、行き詰まった時、一瞬の判
断を余儀なくされる時、心に響くこれらの言葉を噛み締めました。
最初、それは自分の心の内から沸き上がってくる自分自身を鼓舞させる為
の客観的に自分を見詰める単なるもう一人の自分自身の声だと思っていた
事もありました。
いや、心霊というものの存在を否定したかった私は様々な現象に遭遇してい
たにもかかわらず、自分への第三者の介入を許し難く思っていたのは事実です。
そして、敢えてその存在から自分を遠ざけることで自分のアイデンティティの
確立を自身の力と努力で目指してきたと、錯覚したこともありました。
この考え方は、一方で私の生活に起こるいわゆる霊現象といわれる様々な出
来事と矛盾しており、自分の中の常識と非常識(超常現象)との間で常に揺れ
ていました。
私は実に20年以上もの長い時間を足元の道にころがる石くれを時には手に
取り転がし、あるいは足で蹴飛ばしながら、本来は平坦なはずの道にわざわざ
障害物を見出して歩いてきたも同様の行為をしてきたのでした。
自分の身に起こる出来事と心の中に芽生えた様々な人間らしい疑問との折り
合いをつけられるようになったのは、ここ8年ぐらいの事です。子供の頃は素直
に受け入れられたものが、自我が芽生え、人として知恵がつき教育を受けて少
しは世の中の仕組みを知るようになると心霊というものが馬鹿げたものであるか
のように思えてきたのでした。
しかし、その馬鹿げたものであるはずの存在に私はしばしば助けられてきたの
も事実です。
インターネット上で心霊を検索したある人に聞いたことですが、心霊のカテゴリー
でヒットするのは、殆どがオカルト遊びの類いであったそうです。いわゆる、
怪談を集めたもの、心霊スポットと呼ばれる場所を集め検証したものとか
そこには、生と死の持つ厳粛な事実は語られていません。テレビなどの特集
番組で取り上げられる「霊」は、呪いや祟りを前面に出した怪奇現象であり
呪いや祟りの感情を持つに至った人の人生の本質を語ろうとはしていません。
そこにあるのは、生きている人の醜い好奇心や興味を満たすだけの道具に使
われた哀しい「霊」だけでした。そこで語られている「霊」とは、忌まわしいもの
おどろおとろしいもの、人を攻撃し災いをもたらすものばかりです。
何故、霊に怯え恐れるのか?霊が出たと言っていい大人が騒ぐのか・・・?
何故、霊の出るといわれている場所にわざわざ出かけて悲鳴をあげている
のか、私にはそういう一連の行動をとる人の心に合理的な理由が見出せず
に理解に苦しみます。
そして常に「霊」の存在を身近に感じていた私には、これらの風潮に常に疑
問を持ち続けていました。そういう外的な疑問と、自分の心にずっと在った疑
問を抱えながらも、しかし、私は自分の背後の存在を徐々に受け入れ時間を
かけて信頼関係を築き上げてきました。
「恐るるなかれ」「本質を見よ」これは、そんな中で常に自分に突きつけられて来
た私にとっての「踏み絵」のようなものだったのです。
何かの現象に遭遇したとします。それが世にも忌まわしい姿を見せて私にア
プローチして来たとしても、目に見えたり聞こえたり、感じたりするものに振り回
されることの愚かさを戒めてくれると共に、見えるものの向こう側に在るものの本
質を見誤らない訓練の期間というものが、恐らく私が悩みを抱いていた時期
であろうと・・今となっては思います。
霊は怖くない
私は、様々な方法をもってして霊界の存在を知らせるべく「教育」を受けて
来たように思います。しかし、前述したようにそれらの存在をある時期には否定
した事もありましたから、私を見守る人々はさぞ歯痒い思いをしたに違いない
と考えました。しかし、これは、人間という肉体を持った者の感情であって、私
が「あちらの人」と呼ぶ人達にとってはそんな人間の取るに足りない感情はあり
ようがないのでした。すなわち、あくまでも慈悲の心でもって私という小さな存在
に接していてくれたのです。
ここでは、便宜的に仏教用語の慈悲という言葉を使っていますが、何者とも比較
できない宇宙にも匹敵する大きさの温かいこころ、目でもって私が人としての経験
から積み上げられた分別がつくまで機を見ていたというところでしょうか。
そして、私が経験して来た様々な事柄も、乗り越えてきたと思った困難もすべては
巧みに準備された、今の私へ至る必要な布石だったのに気がつきました。
今へ至る道への布石・・・。これは一口に言い表わせるものではありません。
振り返って見るとこれを語り出せば実に複雑な想いと共に、数多の慟哭とともに
自分自身をさらけださなければなりません。が、お目出度い私は自分が可哀相
だと感じたことはないので読み手にとって些末としか言えない事柄は省略
します。さて・・・。
私が信頼関係を築いてきた「あちらの人」は、私からみれば大変に忍耐の人で
す。私は何度か大病を経験してきましたが、いつもぎりぎりのところで助かりまし
た。また、仕事や生活面で、当時は艱難辛苦を舐めたものだと本人は思っていた
ものの、気がつくとまた、新たな道が拓けていました。様々な経験を通して私が
得たものは、痛みを知るということに尽きるでしょう。自分を過信し、持てるものに
溺れなかったのも、傲慢な人間の愚かしさ、可笑しさをわが身でもって知る事で
示してくれたのだと理解しています。
では、何故、困った時に助けてくれないのか?そんなに、大きな存在の霊が控
えているのなら、何故事前に困難を回避出来なかったのか?という疑問もありま
しょう。実は、何度も私は助けられています。今、こうして生きている事がその証し
です。不思議なくらい「ひどい目」にあって尚、私は幸福に暮らしています。精神
的な充足感はもちろん、普通に息をして生きることすら困難なこの時代にあって
私の生活は家族や多くの友人の愛情に恵まれ、満足できる程度に物質的にも
足り、こうして生きています。
あくまでも、自分の人生の主役は自分であること、これを踏まえた上でどうしても
人の叡智では解決の望むことの出来ない出来事にのみ、あちらの人は手を差し
伸べてくれました。その証明は、私にはつけようがありません。
何故、あなたはそこにいるのかその問いに応えるのが難しいのと同様、証明の
方法も思い付きませんし、また、他者に超常現象を示してそれを証明したいとは
思っていません。
では、多くの人が恐れとともに語る「霊」とはなんでしょうか。
それは、自分自身の心が生み出した恐怖という名の幻影です。自らから作り出し
た恐怖の幻影に怯えるのは馬鹿げています。そして、自らの行為や振る舞いに
反省の機会を設けず、人生における些細な失敗や躓きの原因を自分の中に
求めず、霊のせいにして免れようとする愚かな心が恐怖の対象を生じさせ
るのではないでしょうか。霊の仕業にしていれば、自分が楽だからですか。
ひと括りに霊を語るのも乱暴な話ですが、私が語りたい霊とは怨霊や魍魎の
類いではありません。生きている私達自身に在り、備わるもの・・それも霊
であると考えています。死霊や怨霊の恐怖にいたずらに怯えるのはいい加減
やめにしようではありませんか。
ところで、霊界の大きな存在から加護を受ける方法はあります。それは、実に
簡単なことですが、日常の中でしばしば忘れがちな事でもあります。すなわち
感謝の心を常に忘れない事につきるでしょうか。その感謝の心を自分の内に
向けるのではなく、外に向ける事だと思います。
また、低いものに心を合わせるのではなく、常に高いものに心を合わせることも
忘れてはならないことでしょう。人は誰でも・・大きな加護を受けられるものです。
多くの人は、その存在を無意識のうちに受け入れ加護を受けているのです。
さらに、もしも神仏の加護を感じられないとしたら、大いなる加護を受け入れられ
なくしているのも自分自身の心の有り様であることに気がつくべきでしょう。
そして、その存在は、必ずしも饒舌であるとは限りません。むしろ、沈黙の中に
限りない愛情を感じるのは私だけではないと思います。この、黙って見守るとい
う行為は実は大変に厳しく忍耐を必要とし、ある意味、とても優しい事であると
感じています。
例えば転んだ人に手を差し伸べて、立ち上がらせるのは簡単ですが、そばにい
て自分の手足を使って立ち上がろうとするのを見守るという行為は見守る側に
大変な包容力を必要とするのではないでしょうか。
主体的な人生を生きるのは自分自身ですから、安易に手を差し伸べてもらって
それでその場は事足りたとして、次にまた転んだら・・・。同じ事を繰り返さない
事が生きる上の学びなのだと私は思っています。
しかし、自分の手足で立ち上がろうと努力している過程で目の前に障害物がある
かもしれないし、自動車が猛スピードで脇を通り過ぎていくかもしれない。そこで、
大怪我をしたりしないように見守ってくれているのが霊界の大きな存在であると
考えています。
霊は恐れる物ではありません。あくまでも優しく、時には厳しくはありますが
自己が意識している、しないにかかわら共に歩いている存在なのです。
少なくとも、それを知っている私は大変な果報者だと感謝の念を抱き続けて
います。
◆次回は、「霊で遊ぶ事の愚かさ」
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