〜ゆうが語る、フォークロア〜
あの日、あの時の出来事はなんだったのだろう?
本 当 に あ っ た ちょっと不 思 議 な 話 |
ある時期私にはいろいろな事が「透けて」見えることによって
いろいろと不都合がありそれが鬱陶しくてたまらなかった事があります。
例えば、皆さんも一度はやった事があると思いますが、裏返したトランプを
同じ数字をめくり当てて遊ぶ「神経衰弱」というゲーム・・・。
私には裏返したトランプの数字とマークが何故か全部わかってしまうので
遊んでいても面白くありませんでした。
わかる・・というよりもカードを見つめていると次々にマークと数字が
目の前に浮かんでくるわけです。
それは、目で「見ている」のとは厳密には言えないのですが
とにかくカードの種類が鮮やかに脳裏に現れるのです。
ですからゲームは何をやっても相手のカードも「見えてしまう」ので
夢中になって遊ぶという楽しみがありません。
そういうこともあって私はその類いの遊びに親しむ事はありませんでした。
それらが単なる遊びの中だけの出来事ならご愛敬ですむのですが・・・
ある日私はある事に気がつき愕然としました。
それはある晩の、夕飯を終えてお風呂に入っていた時の事です。
午後8時を少し回った頃、私は洗い場でいつものように
身体を洗おうと石鹸を泡立てていました。
それは、突然・・・。まったく唐突に私にやってきたのです。
石鹸で泡だらけになっていた私は激しい爆音と頭部を強打するような
衝撃を受けました。それはなんと喩えたら良いのか・・・・
まったく言葉にする事は出来ないのですが。
同時に目の前に巨大なスクリーンのような物が現れ
飛行機が爆発している瞬間の様子と数字が2種類現れて消えました。
一瞬の出来事でしたが、お風呂場にいるはずの私は
あたかも映画のワンシーンの中に投げ出されたような錯覚に
恐怖を感じる暇も無くただ呆然としていたのです。
「一体、今のは何なのだろう・・・・??」
私はわけもわからないまま急いでお風呂からあがりましたがこの事は
家族には笑われるのに決まっているので黙っていました。
その一週間後の事です。
夜のNHKのニュースで、外国の某航空会社の飛行機がトラブルの為に
空中で爆発を起こし、乗客・乗員は全員亡くなったという報道を見たのです。
その中には日本人が大勢乗っていました。そして、あっと思いました。
一週間前の夜、お風呂場でに私の見た二種類の数字は、
ひとつは7日後という日本語で目の前に現れましたが・・
もう一つの数字は亡くなった人の数だったのです。
それ以来、この時のように鮮やかな映像すらなくなったものの
飛行機事故の起こる前の晩には、必ず激しい衝撃音を聞きました。
また、日中、電話で会社の人と仕事の話していて突然ぼうっとなって
思わずつぶやいてしまった事もありました。
「今、もうすぐ飛行機が落ちてしまいますよ・・・。」
電話をしていた支社の人はえぇ?何言っているんですかぁ?
などと笑っていましたが、電話の向こうがにわかに騒がしくなったかと思ったら
興奮した様子で「今、飛行機が落ちたっ!」と言うなり電話が切れました。
支社は羽田にありましたので皆リアルタイムに様子を見に行ったのです。
私は軽率でした。自分を一瞬見失い言葉に出してしまったのですから。
この時の事を教訓に私は絶対に見えたものを人には軽々しく言うまいと
心に誓いました。
何かを見てしまう事は仕方ないにしても、それを得意がる自分にならないという
保証はどこにもないからです。それは、わたしが人間である限り。
そして、私がもっと年を経て人生や命というものを深く考える事が出来るように
なるまでこの事は黙っていようと決めました。
この世の中には人の力ではどうにもならない事が確かにあって
それを人間がどうこうすることは出来ない・・・そう思います。
私は「運命論者」ではありませんが、知らなくて良い事というのは確かにあるのです。
それを知ったとして、幸せになれるでしょうか。
超能力というのは確かにあるのかもしれませんが、私はわざわざそれを
訓練してまでも得たいとは思いません。
また、そういう自分が人生に消極的であるとも考えません。
もしも、それが私にとって本当に必要なものであるならば
自ずと道はそのように開けるでしょうから。
神仏の存在を信じている私には、そのように考えています。
その後、飛行機事故に加えて地震が起きることも前の日に感じられるように
なりました。地震の場合は地の底からなんともいえない「振動音」が
私の身体に伝わってきます。
それがあった翌日にはどこかで必ず大災害になるような地震が起きました。
しかし、私にはそれを知ってもどうする事も出来ない・・・。
これらの出来事は結構私を消耗させました。そして、私の得た結論は・・・・・。
それは、私自身の「目」を閉じる事でした。
私はこの自分の選択を今でも間違ってはいないと信じています。
何故なら、人間には知らなくも良い事があると思うからです。
今でも時折それは私にやってきますが、敢えてそこから目を背ける事で
私は自分と折り合いを付ける事が出来ました。
それではまた御会いしましょう。
私は自分でも信じられませんが、かつて大企業のOLをしていたことがあります。
それは20代の前半の4年間でしたが、社会人として踏み出した私は世間という現実を
良くも悪くも様々な形で突きつけられ、経験を重ねる事ができました。
今回お話するのはその会社に入社したばかりの私が22の時の出来事です。
私は当時、その企業の本社ビルの7階にある部門の営業部に所属していました。
午後になると私は午前中に処理をしたコンピュータ用の伝票を一つ上の8階にある
経理部に持っていきます。
私は私の所属する部署が比較的フロアの入り口に近いので運動のために
上の階に行くのには階段を使っていました。そこは静かで自分のヒールの靴の音など
も良く響きますが、人が滅多に通らないので私はそこを上り下りするのを結構気に
入っていました。それに、階段の入り口の近くが経理部の入り口でもあったからです。
その、ある日のことでした。
いつものように伝票を経理部へ届ける為にフロアを出て階段へさしかかりました。
階段を5分の1ほど上ったところでかなり強いお線香の匂いが私を包みました。
それはむせるほどの強い匂いでしたが、一体誰が会社でお線香など焚いているので
しょう。私はお線香の強烈に匂う階段を上って行きながら、ああ、そうか今日は
彼女の49日にあたるのかな?と、突然思い出しました。
その彼女というのは、私より一つか二つ上で高卒で会社に入っていた人なので
キャリアは長く私はあまり話した事はありませんでしたが、とても優しそうな人でした。
その人は社内恋愛で電算室(ホストコンピュータがある部署をこういった)の人と
結婚し退職したのですが、まだ新婚なのに重度の妊娠中毒症でお腹の赤ちゃんと
ともに突然倒れ亡くなってしまったのでした。
社内の雰囲気は大変アットホームだったので、彼女の突然の死によって社内に衝撃の
嵐が吹き荒れ、彼女と同期の女子社員や旦那の同僚も含めしばらくは業務にも支障が
出るかと思われるほどでした。
しかし、同期の人間が本社に一人もいない私などは全く門外漢というか、仕事に
プライベートを持ち込むような雰囲気が好きでなかったのと死んだ人をよく知らなかった
のでその慟哭の嵐の中には加わらず、淡々といつも通り仕事をこなしていました。
そんなわけで、その階段にたち込めたお線香の匂いの元は、たぶん経理部か
電算室の誰かが亡くなった彼女を偲んで焚いたものに違いないと考えながら
私は階段を上っていきました。
それにしても、本社には様々な立場の来客があるわけですし、
会社でお線香を焚くかなぁ・・・ちょっと行き過ぎだなぁと思っていました。
階段を上りきったところで、仲良くしていた隣の経営管理部の女性と鉢合わせしました。
私は足元を見ていたので思わず「わっ!」と声を上げてしまいましたがその勢いで
「誰がお線香焚いているの?」と聞いてしまいました。
「ええ?お線香なんて、誰も焚いていないよ!」お祭りの大好きな浅草に住む彼女は
私の肩を書類でバシバシ叩くと笑いながら私とすれ違いに階段を降りていきました。
「??」この匂いが、わからないのだろうか・・・。私は訝しく思いながらも伝票を
経理部に届けついでに、そこの女性社員に「誰か、お線香たいてましたか?」と
小声で聞きました。答えはやはりノー。8階の人何人かにそっと聞いてみましたが
皆、何を突拍子もない事を言っているんだ?という顔をしていました。
私はそれ以上、その匂いの元を追求するのをやめ、この日の午後の出来事は
自分一人の胸にしまっておく事に決めました。
それから間もなくのこと・・・。
不定期の人事異動が発令され、亡くなった彼女のご主人、つまり電算室に勤務
していた人が九州にある支店の管轄下の営業所に配属されたことを知りました。
その九州の支店は、私が所属する部門の営業部の傘下にあるため、そこに配属された
彼と、はからずも毎日業務報告の電話で連絡を取る事になってしまいました。
思えば、本社にいた時はすぐ近くにいたにもかかわらず、挨拶程度で話しらしい
話などは全くした事がないのに、東京と九州という距離になって、はじめて
挨拶以外の言葉を交わすというのも不思議な気分でした。
その彼との交流は、毎日の電話の他、社内便で毎日届く郵便物の中にメモが入って
いたりとかで、私が会社を辞める寸前まで続きました。
まだ若かった私は、愛する妻と生まれてくるはずの子供を一度に亡くした人の気持ち
など本当にわかってはいなかったのだと思います。私は彼が元気を出してくれれば
いいやという程度の「同情」の気持ちで彼に接していたのです。
今の私なら、もっと他に言うべき言葉も思いついたかも知れませんが・・・。
東京生まれの彼が、本社の電算室勤務を捨て自分から望んで全く畑違いの部署の
しかも遠い九州という土地に転勤願いを出し、言葉や習慣の異なる営業所勤務を
こなしていたのが驚きです。しかし、後で聞いたのですが妻を亡くした事で非常に苦し
んでいた彼は、毎日毎日酒を浴びるように飲んでいたといいます。
彼はよく電話で私にこう言っていました。
「●○さん(私のこと)と話しているとさぁ、ほっとするよね」
彼は私にとって、特に親しい人ではありませんでしたが、彼が苦しんでいる時
もっともっと親身になってあげられるほどの度量が自分にあったらと思います。
私が今の仕事に転職する準備をするためにその会社を辞めた後、
彼はスナックに勤める年上の女性と同棲をはじめた・・という噂を聞きました。
会社には社員が大勢いるので、あのお線香の匂いをかがなければ私は亡くなった
彼女と残された彼のことなど冷たい私は思い出しもしなかったでしょうし・・・。
思えば不思議でした。彼は今、どうしているでしょうか・・・・。
今の私同様、幸せでいてくれることを願ってやみません。
それではまた御会いしましょう。
私は母をはじめ、母のきょうだいの臨終に立ち会って来ましたが、
母のきょうだいであるいとこたちと話をしていて気が付いたことがありました。
いとこ達が言うには、先に死んだきょうだいがどうも迎えに来るらしいということでした。
母の時は、母の意識は死ぬ瞬間まではっきりしていたと断言できますが
母が第一回目の手術を受けた時に母から聞いたことがありました。
母の病状というのは医師にすら重いものであると認識されていなかったのに
かかわらず、手術を終えた母のベッドを取り囲むようにして、母よりも先に鬼籍に入った
母のきょうだいが集まり母を見守っていたと言うのです。
そして、病状が進むに連れ、母の亡くなったきょうだいは頻繁に母のもとへ訪れたようで
した。
さて、私は、医師からは、絶対に命に関わる病状ではないと太鼓判を押されていたに
もかかわらず、自分の目の前に広がる「ビジョン」には、母のお腹に大きな腫瘍が
出来ており、それが母の命を奪うであるだろうとという光景がありありと見えていました。
私は、自分の見たこの「ビジョン」が間違いであることを確かめたくて、
母の担当医に面会を求め、幾度も病状の確認を取りました。
J医科大の外科医は、そんな私を半ば呆れ、そして何を根拠にそんなことを何度も
言うのか、私を馬鹿にすらしたものでした。そして、病状の説明を詳しく求める私に
母の写真や血液検査の値を私に示し、
「あなたのお母さんは、絶対に癌なんかではありませんよ。気にし過ぎです。癌
ノイローゼではないのですか?」とまで言い放ったのです。
そこまで医師に言われたら私も、納得するしかありません。私は誰もいなくなった
病院の待合室で母は癌ではなかったと、自分の見たビジョンは間違っていたと言う
安心からほっとして椅子に倒れ込みました。
あの日、あの時の夕暮れの太陽が沈む色を私は今でも忘れません。
しかし、医師が太鼓判を押して臨んだ手術で、母のお腹から2p以上の大きな
腫瘍が見つかったのでした。医師は私に言う言葉もなかったでしょう・・・。
私は、願わくば自分の見たビジョンが間違いであることを祈りたかったのですが
その時は手後れでした。
しかも、医師の見立てでは癌などの緊急をようする病状ではなかったため、最初、
母の治療は半年先まで伸ばされていたのです。
それを私は別の病院へ入院できるよう走り回りましたが、次に入院した病院でも
同じようなことを言われたばかりか、癌ではなく、ヘルニアだと診断されたのでした。
そのヘルニアの除去手術でも、母の病気は発見されなかったのです。
私は手術を担当した医師に、不安なので病理検査をしてはっきりと安心させてください
と言いました。医師にとっては、私は煙たい存在だったでしょうが、わたしには
母の命がかかっています。私は医師に馬鹿にされながら検査をすると言う約束を
とりつけましたが、結局、除去したヘルニアだと思われてい物は、組織検査の結果
実は末期の進行癌の一つであることがわかったのでした。
この時ほど、自分の見たものがただの幻影で思い込みだったとしたら、私はどんなに
嬉しかったことでしょうか・・。しかし、予想はまたもや的中してしまいました。
結局、母は都合3回手術を受けましたが、もしも最初の時に医師の見立てがしっかり
していたらいらぬ手術で苦しまなくて良かっただろうと悔やんでいます。
それらの手術の時、決まって母のきょうだいが母の夢枕に立った話を母から聞いて
私はもう駄目かもしれないと心の中で泣きました。
母はきょうだいの仲が大変良く、どこへ行くにも一緒でしたから・・・。
きっと迎えに来る準備を始めていたのだと思います。
母の病状が悪化し出したのは暮れも押し迫ったちょうど今頃のことでした。
ですから、私は年末になるとあの時の空気の冷たさや、乾いた風の匂い、
せわしない街の様々な風景が母の思い出とない交ぜになって身も心も凍るような
そんな気になるのです。
それではまた御会いしましょう。
今回は、二十話<癒しの旅にて>でお話ししたエピソードの後日談です。
私は旅立ちの前日金縛りに遭い、行くな、行ったら殺すと男の声で脅され、しかも
首を絞められるという災難に遭いました。
ところが、その「男の霊」がもう一度やってきたのです。
旅から戻って、写真の件も自分の中で納得させようやく落ち着いた頃のことでした。
その夜は比較的早く休むことに決め、床についた私はいつものように眠ってから
きっかり1時間50分後の真夜中に目を覚ましました。
起きて習慣のようにトイレに行こうと布団から出ようとした私は、強い力に引っ張られ
起き上がることが出来ずに、布団に磔状態になってしまいました。
すると、不快な虫の大群の羽音のような音が私を襲い、私は身動きが取れなくなって
しまったのです。しかし、苦しさは、全くありませんでした。
私が困っていると、私の寝床の左側に、あの時の男が「お礼参り」に来たのです。
その男は、私に手をかけ、私を苦しめようと私の身体に手を伸ばそうとしましたが
どうも私の身体に手がかからないようなのです。
その時、私はあることに気が付きました。
私の身体は銀色の光のまゆのようなものに包まれ、そのためにその男はどうしても
手が出せないでいたということに・・・。
その時、私は金縛りに遭っていたにもかかわらず、やわらかな光に抱かれているようで
心は大変落ち着いていました。
さて、男は何度か私に手をかけようと試みましたがそれが叶わないと知ると
私に向かって毒づきました。
「ちくしょう、ちくしょうっ・・・!こいつが邪魔で手が出せねぇ」
男は私の寝ている布団の側をゆらゆらと漂っていましたが、そのうち私の耳の辺りで
大声で不気味なうなり声を発しながら消えていきました。
そもそも私には覚えのない霊ですので、私としてもそれ以上関わるのはやめて
忘れることにしました。あれ以来、その男の霊は私の元にやってきません。
それではまた御会いしましょう。
ラボの営業に託したプリントとネガは、翌々日戻ってきました。
プリントはトリミング指定をして、問題の箇所のコントラストをつけるために指定した
通りにあらためて焼き直し、ネガは現像所の人によって調べてもらったのでした。
サイズは、料金のことも考えていわゆる一般の現像に出すとプリントされるサービス
サイズと言われる大きさです。プリント代金は一枚500円でしたが、ラボの営業マンは
これでお金を取ったら罰が当たりそうと言って、何としても代金は受け取りません。
「これは、マジですね・・」営業マンが現像の人に聞いたところによると
もちろん二重露光でも、フィルムの傷でもない。こういうことってあるんだなぁと
いっていたといいます。
営業マンは焼き直したプリントとネガを届けるとお茶も飲まずに逃げるように
帰っていきました。
さて、その焼き直したプリントを見ると・。スーパーの写真屋から上がってきたのとは
出来上がりもあきらかに違うのですが、(一枚10円と500円の差がここにある)
問題のお坊さんのような上半身の姿の他に、人の姿が写っているのがはっきりと
わかりました。
それは、私の死んだ母の寂しそうな顔でした。
私はそのプリントを妹に見せました。すると、当時4歳になる甥がその写真を見て
「ああ、大じいじいだぁ!」と言って騒ぎはじめました。確かに・・・。
着物を着ているような襟元で服装は違いますが、私の祖父にも似ています。
しかし、祖父に似てはいますが、全くの別人なのです。
なによりも半眼に開いたまなざしは厳しくはあるが、人間的な俗っぽいところが感じ
られずプリズムで光を透過したようなきらめきの中に写っている姿は荘厳な印象で
写ってはならないこの世のものではないのはわかりますが、恐ろしさを微塵にも
感じさせない・・・。或る意味、厳粛な写真だったのです。
私はしばらくはその写真を毎日眺めていましたが、自分のシステム手帳の中に
入れて忘れることにしました。
そんなある日、仲良くしている近所の奥さんと買い物途中でばったり会いました。
私は仕事が忙しいと殆ど打ち合わせも電話やファックスですませてしまうので外に
出ることは滅多にありません。ですから、彼女と会うのは久しぶりでした。
私は急いでいたので挨拶だけして家に帰ろうとすると、彼女が私のことを「ある人に話
をした」というのです。その「ある人」とは、私の家の近くに住んでいるいわゆる
「霊能者」と呼ばれる人で、彼女はその人と子供を通じて親しくしているらしいのです。
私は正直、迷惑に思いました。何故なら・・・。
テレビでは夏になると心霊関係の番組を放映すると必ず「霊能者」と称する人が
出てきますが、私はどうもあの手のものが嘘臭く思えて仕方がありません。
ただ単に煽り立てきゃあきゃあ騒ぎ立てる内容にまとめられているのも気に入らないし、
そもそも心の問題を扱うのには慎重な態度で望まねばならないのに、
好奇心丸出しの「見世物」にしているそういう番組に出ているというその人達の
神経が私にはわからなかったからです。
さて、彼女が好意で一度会ってみたら・・というのにも曖昧に答えていましたが、そのうち
あなたを連れて遊びにいく約束をしちゃったからなどと言われて、私は飛び上がるほど
驚きました。私は自分の意志に反して、その人のところへ行くなんて、いい大人が
全く、馬鹿げているなぁと思いながらも、断りきれず何時の間にかその人のところへ行く
という約束をさせられてしまったのでした。
その人のところへ行くという当日。
その日は、何故か仕事が前日になって急にキャンセルされて別の日になったので
私は朝から暇になってしまいました。これも仕方ないな・・と思いながら
私はその人のところへ話をしてくれた近所の奥さんと一緒に出かけました。
「霊能者」と言われているらしいその人は、見たところまったく普通の人で私が想像して
いたようなエキセントリックなところも全くなく、赤ちゃんを抱いて出てきたその姿に
私は安心しました。ただし、その人は、はっとするような美人でした。
このように「普通の人」なのに、この人を頼って遠くは九州から病人がやって来る・・・。
私には理解しがたいことでしたが、自分がここにいるというのも不思議でした。
私はその人と、世間話を少ししました。当初は、その人は忙しいので30分だけという
約束だったらしいのです。私もそういう場所にたとえ10分でもいられないだろうと
思っていたのですが、気が付いたら2時間近く経っていました。
相談料が3000円かかるとも聞いていましたが、その人はあらかじめ用意して行った
お金の包みも受け取りませんでした。私からはいただけないというのです。
この時の内容は、具体的にはお話しすることが不可能です。
言葉にならないやりとりがいくつかあって、それを私もその人も無言のうちに
お互いに受け取っていたからです。端から見れば、奇妙な空間だったでしょう。
最後にその人から「あなたは、自分に気が付いていない」と言われました。
「?」私の中に大きなクエスチョンマークが点滅しましたが、それはやがて起きる事の
はじまりを示唆する一言だったのだろうと理解しています。
その人とは、その後道端で会ったりして3回ほど偶然出会いましたが、その後の
交流はありません。ともかく、私は何かに属したり束縛されるのが苦手ですし
そういう人の中に入って行けば、たちどころに「見世物」にされるのが落ちだからです。
というのも、実家のある街で「拝み屋」として尊敬されているおばあさんがいたのですが
子供の頃に、私の母に向かって私にこの子を私に預けなさいと
人づてに言われた事がありました。母も、私ももちろん、その人には会った事は
ないのにも関わらず、たまたま近所に住んでいた私の親戚の人に貴方のところに
こういう子がいるはずだから、会ってみたいとか言われた事があったのです。
もちろん、私にとってはとんでもないことなので丁寧にお断りしたのは言うまでも
ありませんが、私は常識を持った母の子で本当に良かったと今でも思います。
そんなことは、敢えて自分の生活に必要ではないし様々な体験を持っていたとしても
それは、あくまでも私個人のものであって、他人にとやかくされるものではない・・
長い間、ずっとそう思っていたのですが・・・。
その人と会ってから、奇妙な事が起こりはじめました。
一口に言えば、封印していたものが再び動き出した・・というとオカルトですが
子供の頃からあまりな体験をした来た私は、或る時期自分の意志で
「見ない、見えない、聞こえない」を実践して幸せな日常生活を送っていたのです。
にもかかわらず、癒しの旅で写ってしまった写真をきっかけとして私の感性は
再び鋭敏になってしまったようでした。これには、自分でもほぞを噛む思いでした。
もともと、私の母方のいとこ達は、男女を問わず皆、一様に勘が鋭く
その中でも際立って感が強かったのが私なのですが、それがまた起こるのなら
やってられないなぁ・・と言うのが正直なところだったのです。
その人とあってから一月ばかり経った、或る朝の8時を少し回った時のことでした。
私は起きて顔を洗おうとしていましたが、「巫女よ」いう老人の大きな声で呼びかけられ
たのです。その後は、どこの国のものかわからない不思議な言葉で延々と私に
語りかけられましたが、私には理解できません。私は頭を抱えてしまいました。
とうとう気が狂ったのか・・?その時の私は呆然とその言葉を聞いているだけでした。
その後わかったことは、私に「巫女よ」と声をかけてきた声の主は、どうやらあの写真の
お坊さんのようでした。その人は、幾度か私の前に姿を現したからです。
さて、その後いろいろな経験をしますが、私には或る決意が生まれていました。
「私は、これからは、決して逃げない」
母を亡くして自分を見失っていた私に、あの世の人は私にふさわしい方法で
私に手を差し伸べてくれたのだと・・今ではそう思えるようになりました。
(この項、次回に続く・・かもしれません)
それではまた御会いしましょう。
母が亡くなったその年・・。
私はあたかも自分の身体の一部がもぎ取られたような気がして何をしても心の中に
ぽっかりと空いた穴は埋めることが出来ませんでした。
あれほど好きだった仕事は、これもまた馬鹿馬鹿しくこんなことに生きがいすら見出して
いたと思うといかにも自分が愚かな、取るに足らない存在だと考え込む毎日でした。
それまでの私の生活は時間がいくらあっても足りず、寝る暇も惜しみ動き回り
自分の仕事の合間に他人の仕事の面倒までみるという猛烈な働きぶりでした。
だから母の余命を宣告された日から覚悟していたとは言え、私を襲った「不幸」が
これほど私に衝撃を与えるものとは予想もしていませんでした。
いえ、こうなる自分をどこかでたぶん知っていて避けていたのかもしれません。
私はいつの時でも「強い自分」を演出していただけだったのではないだろうか?
依頼された仕事を目の前にしても、私は以前のように情熱を傾けて取り組むことが
できなくなっていました。そうこうしているうちに、言葉が詰まり、原稿を書くことが
苦痛になってしまったのです。
しかも、何をしても虚しく、食事をしても味がしない。
殆ど生きているのか死んでいるのか自分でもわかりませんでした。それでいて、
時には冷静に自分を見詰めているもう一人の私がいて
「もうお前は使い物にならないね」とささやくのです。
そんなある日の出来事でした。テレビで近県の観光地の特集をやっていて何気なく
それを眺めていた私は、「ここに行きたいっ!」という激しい衝動に駆られました。
何故そう思ったのか・・・?とにかくそれは久しぶりに込み上げてきた感情でした。
私は夏の終わりに温泉のあるここを訪れようと決めると早速旅行社に勤めている
従妹に連絡を取り、全ての手配を彼女に任せ出発を待つばかりになっていたのです。
出発の前夜。愛用のカメラの点検をしていると突然カメラが壊れ、シャッターがおりなく
なってしまうというアクシデントがありました。
仕方がないので私は自分のカメラはあきらめ、使い捨てのカメラを明日どこかで
手に入れればいいやと思い直し床に就きました。
ところが、寝付きのよくない私にしては珍しく眠れそうだと思いつつ眠りに落ちる寸前、
私は金縛りに遭ったのです。私の場合は金縛りにかかっても顔や手は動かせること
が多いのですが、目を開けて横を見ると私の寝ている顔の辺りに黒い服を着た男が
座っているのに気が付きました。
その男がどうやら金縛りの原因のようでしたが、私の首を絞めようとしてくるので
私は思いきり手で払おうとしましたがうまくいきません。
男は最初、何かを私にささやいていましたが、その男の声が次第にはっきりと聞こえてき
ました。それは、こう言っていました。
「行くなっ!行ったらお前を殺す。殺してやる・・・」
しわがれた声の、悪意に満ちたなんとも不気味な声の持ち主は私にそんな
恐ろしい台詞を吐くと消えて行きました。
しかし、母という宝物を亡くして自分自身さえも見失いかけていた私にとって、それは
別に脅威でもなんでもなく、もし明日からの旅行で何かあるのならそれはそれで
お母さんのところに行けてちょうどいいやなどと考えた私は、今起こった出来事に
怯むこともなく、また深く考えずそのまま寝てしまいました。
翌日は久しぶりに気分も良く、私は三泊四日の旅行に旅立ちました。
旅は予想以上に楽しく、かつて紫水晶の大産地だったそこは今は景勝地だけが
知られていますが、森の緑といい壮大な岩石の創る凛とした風景といい私にとっては
何もかもが美しく、本当に久しぶりに私は時間を忘れて遊びました。
景色は見飽きることなく私の目の前に広がり、あたかも私を包んでくれていかのように
力強く、そして厳しいながらも温かささえ感じることのできた毎日でした。
さて、いよいよ帰る日のこと。
私は、お土産屋さんで友達への贈り物を物色していると店の入り口にブドウを
売っているおばさんが一人でぽつんと客を待っていました。
母の年令ぐらいのその人に私は親しみを覚えて、ブドウを買うことにし適当に見繕って
もらって包んでいるとその人はだんだん涙ぐんでしまうのでした。
私が「どうされたのですか?」と聞くと・・・。
そのブドウ売りのおばさんは、ちょうど年の頃なら私ぐらいの娘さんを癌で
亡くしたばかりだというのです。そんなこともあるんだなぁと思った私は、そのブドウ売り
のおばさんに私も母を亡くしたばかりなんですよと打ち明けました。
バスの時間ギリギリまで私たちはお互い元気でこれを乗り越えましょうねと慰めあい、
また、ブドウがたくさん獲れる今頃またおいで、という声に送られて私は帰ってきました。
素晴らしい休暇を過ごした私は、これで何とか生きて行ける希望のようなものが
心の中に芽生えていました。そして、滞在中に撮った沢山の写真を現像に出し
でき上がりを楽しみに待っていました。
美しい自然はポケットカメラでは到底再現できるものではありませんが、写真の中の
私は表情も少し解れているのが自分でもわかりました。
それは悲しみの中の笑顔ではあるけれど、美しい景色を目の前に私は絶えず
亡くなった母に話し掛け、一緒に楽しんでいるかのような錯覚さえ起こしたほど
それは楽しい旅の記念写真でした。
さて、出来上がった写真を眺めていたデザイナーが
「お〜、なんか坊さんが写っているぞ〜」
といつになく間延をしたような驚きの声を上げています。
私はなに?なに?なんか、変なものが写っちゃってる?と言いながらそれをみました。
というのも、以前温泉地で渓谷をバックに写真を撮ったら、谷の下に露天風呂が
あったらしく、全裸の男性がこちらを向いて仁王立ちに立っている姿が、ポーズを
とって立っている私の後ろにはっきりと写ってしまったことがあったからです。
それは・・・、見るのも恥ずかしい写真でした。
「これ・・」と言われてその写真を手にとって見た私は息を呑みました。
川に架かっている橋の上に立っている私の足もとの宙に、
美しい光に包まれたお坊さんのような老人の上半身がはっきりと映っていたのです。
髭をたくわえたような感じできりりと結んだ口元、凛々とした目。
寂しそうに笑っている私とは対照的に、写真に写ったその老人は荘厳な印象でした。
そもそも、シーズンが終わりかけていたので、そこを訪れていた観光客はほんの数人。
しかも、下は川の水が音を立てて激しく流れており、その場所には人が立てるはずは
ありません。全く不思議な、しかし美しい写真でした。
冷静になった私は、その写真とネガを仕事の取り引きがある大手のラボの営業マンに
託し可能な限り調べてもらうことにしたのです。
(この項、次回に続く)
※ラボとは、デザインワークに欠かせない広告写真などを現像・引き延ばしをしてくれ
るところです。 デザイン業界は意外に狭いので、会社を辞めてもフリーになっても
付き合いがあり、何時の間にか長い付き合いになったりします。
それではまた御会いしましょう。
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