CON-tribute

コンラッド・シュニッツラー / インタビュー 30.3.08

(続き: パート4)

質問4:アヒムやメビウスと、その頃の特別なエピソードはありますか?

Con:ああ、もちろんある。しかし、もうそのことについては話したくない。まったくいい思い出ではないからだ。私はそのように言わざる得ない。さっき話したと思うが、あの2年間、私はコマーシャルなことはやりたくなかった。今は、お互いに無視している。それが一番だ。私には、数多くの交友関係がある。だから、この2人の友達だけを特別扱いするべきではない。

アヒムやメビとやった音楽は、すべて私のコネで行なった。また、すべて私のアイデアだった。2つのレコード『KLOPFZEICHEN』と『OSTEREI』の仕掛け人は私だ。私には知り合いのプロデューサーがいた。彼は、私と同じデュッセルドルフ出身の古い友人だったので、私は彼のことをよく知っていた。彼は、私にテープを作ろうと言ってきた。多分、レコードにするために、と。また、3枚目の『Eruption』(*訳者注:『Schwarz』)は、私が自分でプロデュースした。これはフロイディグマンがテープダウンした。

アヒムとメビウスは、この作品でもって金を稼ぐことだけを考えていた。私たちは、Klusterの『KLOPFZEICHEN』と『OSTEREI』に出資したが、『Eruption』については私が一人で出資した。それは自然の成り行きだった。彼等がこの作品を気に入らないことを私は知っていた。出来上がったレコードを見せたとき、彼等は私を見て笑った。

「ハッ! このカバーはよくない。私はいつも音楽に携わっているんだ。冗談はやめてくれ。」

彼等と一緒にいたのはコニー・プランクだった。皆、私のことを一緒に笑っていた。私は侮辱を受けたわけだ。このことは忘れない。私たちは後で一緒に音楽を作ることもあったが、この2人の友達とは深い友情を結ぶことはなかった。なぜなら、彼等は私の意図やアイデアを理解することはなかったから。知ってのとおり、彼等の音楽はかなり変化した。ハートに響くようなスイートミュージックの方向へと。なんてこった。私から見たら、お笑いなんてもんじゃない。ハハハハッ! 私はスイート・ドリームを夢見るようなタイプではない。私の考えるファンタジーは、彼等のファンタジーとは別ものだ。

質問5:あなたはヨゼフ・ボイスの元で学んだことがありますが、彼はどんなことを教えてくれましたか。また、フルクサス・ムーブメントについてどう思いますか。あなたは自分がフルクサスのメンバーだと考えていますか?

Con:ヨゼフ・ボイスの話になったが、これもまた昔の話だ。ええと、正確な年は覚えていないが、確か1959年くらいのことだったか。私は船のエンジンルームで働きながら、エンジンのことを学んでいた。その後、デュッセルドルフに戻ると、女の子と街を歩き、鼻歌気分で陸での生活を謳歌していた。また、食べていくために別の仕事をした。夏は好きなだけ日光浴をしたが、一緒にいた女の子は皆いい感じだった。

私は木の彫刻をやっていた。高さ20cm、周囲10cmくらいのを。それは自分の楽しみだった。

友達に言われた。「その彫刻、悪くないね。アカデミーに行くべきだよ。」

ハハハハッ。(笑)今さら私がか?私はもう教育課程はとっくに終えてしまっている。

彼はさらに続けた。「アカデミーに行って、彫刻を学ぶべきだ。」とかなんとか。

「OK。一度試してみるよ。」と答えた。

そして私は、自分の目で見たものをコミカルな風刺画に描いた。こういうの好きなんだけど(笑)、ピカソが足(foot)をどのように描くか、とか、他の画家がどのように表現するか、とか、そういうのを描いて見せた。また、木の彫刻を10個くらい見せた。

私はすぐに入学できるか分からなかったが、「あなたは入学を許可します。」と言われた。

アカデミーに行くと、年取った教授がいた。ナチの時代からいる人だ。彼の考えは、

「強い希望を抱け。」「勝利だ。」「人々は調和を持って活動するべし。」などなど。彼のアートは共産主義的なスタイルだった。

しかしその後、別の友達が言った。

「ヨゼフ・ボイスがいる。新任の教授でまだ生徒がいない。彼のクラスに変更するか?」

OK。彼はナチ教授とは正反対だということも、私はその友達から聞いた。私はヨゼフ・ボイスに会い、彼のクラスに変更したいと告げた。また、自分の状況を語った。他の生徒よりも年齢が高いこと、船のエンジンルームで働いていたので、いろいろな国々を回っていて、すでに社会経験があること、今も仕事をしていること、など。

そして、しばらくの間、私は何かを創り、彼はそれに対してコメントし、さらに私は何かを創り、彼はそれに対してコメントし、といったことをやっていた。最後に分かったのは、ボイスは私がやっていたことをすべて気に入っていたということだった。だから、私はこれ以上アカデミーにいる意味はないと思った。また、アカデミーに在籍するには授業料も必要だし、その頃にはもう子供がいたので家族と接する時間が欲しかった。そのようなわけでアカデミーをやめたわけだが、ヨゼフ・ボイスとの友達づき合いはその後も続いた。彼がベルリンに来るときは、いつも私に会いに来てくれた。彼はZodiakクラブに私を訪ねに来たり、その他いろいろな思い出がある。

これが彼の話だ。しかし、大分昔のことで、私が音楽に興味を持つ前の話だ。私は、彫刻から音楽に転向した。実際のところは、音楽ではなくサウンドやノイズだ。私の最初のグループはノイズを意味するゲロイシェ~Geräuscheだ。ゲロイシェ、これが私の最初のグループ名だ。

 戻る(パート3) <<  パート4  >> 次へ(パート5)

 

[ CON-tribute JAPANESE ] [ CON-tribute ENGLISH ]

Copyright © 2008 Conrad Schnitzler All Rights Reserved.
Copyright © 2008 CON-tribute All Rights Reserved.