《ゆうの大学病院入院体験記》
ゆうは本気で、病院へ行った。《番外編》
ゆうは、本当に災難に遭った。
〜その後のゆう〜
出所はしたけれど・・・。
退院前、私の手術を担当したM講師から「退院後の心得」をたっぷりと聞かされて
いたので、私の日常は入院中と大して変わりなかった。
M講師曰く・・・「自宅で入院しているつもりで、絶対安静を守ってね」
はっきり言って、これはかなり苦痛だった。
今でこそ、この時期の教訓に基づいて私はベッドで寝起きしているが、当時は
客用布団を二枚重ねにして、殿様のようにその上で休んでいたのだが、
コルセットを付けている身にとって、これは拷問に近い。
なにしろ、私は体をねじることが全くできないので、起き上がる時はどんなに早くても
たっぷり5分はかかる。仰向けで目を覚ました場合、まず自分の身体が棒になった
かのように想像して、くるっと横を向く。それから、膝を曲げて片腕を布団につき、
布団から転がる前に反動を利用して起き上がるのだ。
これは、今再現しろと言われても、とてもじゃないが出来るものではない。
顔を洗うのも、シャンプーするのもまっすぐ前を向いたまま。
椎間板がずれて固まると大変なことになるといわれていたので、この事に関しては、
私はかなり神経質になっていたものだ。
加えて・・・。入院中、医師から「ご飯をたくさん食べてね。」と言う言葉を忠実に守って
いたばかりに私はすっかり太ってしまい身体が非常に重かった。
退院後、どきどきしながら体重を量ったら、実に10s近くも増えていたのである。
私は元々丸い顔が毬のようになってしまい、入院を隠していた隣のカメラマンと顔を
合わせた時、「一体、どうしたんですか?別人かと思った」と驚かれてしまった。
退院後の初めての検診の時、私は元の病室へ顔を出したのだが私がいた頃とは
打って変わって、病室は険悪なムードになっていた。
Sさんと他の人達は、どうも喧嘩をしている様子。私はゆきちゃんにお見舞いのモモンガを渡すと草々に退散した。Sさんが話し掛けてきたのだ。私は、こんな身体で!二度と
下僕になるのは嫌だと、心の中でうひゃうひゃ言いながら逃げてきた。
後になって、TさんとHさんから自宅に電話があったのだが、私が退院した後すぐに
年配の患者さんが入院してきた時、やはりSさんはその人を私の後釜にしようと試みたのだが、失敗したらしい。つまり、その人は、「はっきりと物を言う」人だったのだ。
この意味は、深い・・・。Sさんの時代は終わったのである。
神様は、いるのか?
退院から二週間が過ぎた。私は相変わらず寝ている毎日だったが、妹がアメリカに
帰る日が近づいてきた。もう当分会えないから、というので妹が姪と甥を連れて泊まり
に来た。私は寝ていなくてはならない身だったが、可愛い姪と甥にどうしても自分で
選んだお土産を持たせてやりたくて、皆を誘って無理をして吉祥寺へ買い物に出かけたのだった。思えば、これが私と妹の家族を災難から守ることになる。
それが起きたのは、私たちが出かけたわずか15分ほど経過した頃だったからである。
食事まで済ませて私たちは吉祥寺から戻ってきた。
玄関を開けて、子供たちがばたばたと入っていく。私は動作が鈍いので一番最後に
家に入ったのであるが、先に入った妹が、頓狂な声を上げて叫んだ
「ゆー!、ど、どろぼう?泥棒が入ったのかなぁ・・?? 」
玄関からリビングに続く廊下に、私はうんしょ・・といってあがった途端
私は自分の目を疑った!それは、私の家ではないっ!!わけはないが、
「なんだぁ〜?これ〜?ははは???」
今、正に目の前に広がる光景は、一体何なんだ?? あまりにも凄まじい室内の様子に
心底驚いた私は、思わず笑ってしまった。
人間は、究極のところ、笑う生き物なのかもしれない。
さて、良くみると、洗面室に置いたある筈のものが玄関にころがっているし、廊下の白い壁とフローリングの床は一面真っ黒。洗面室を覗いた私たちは、今度こそ腰が抜けた。
洗面化粧台はバラバラに壊れ、白いはずの室内は一面黒くすすけ、上を見ると、天井に大きな穴が空き、底の抜けた缶が突き刺さっていたのである!
天井に刺さっているものを見たら、どうもスプレー缶のようなものである。
私はとにかくこれは消防署に連絡しなければならないと思い、消防署に電話をし
大家さんにも連絡してもらった。思えば、この「迅速な連絡」というのも正しかった。
こういう場面で、私は人も驚くほど冷静である。(冷静に見える)とにかくやることをやってから、落ち着いたところで驚いたりするのが私なのだ。
消防署にいち早く連絡したことで、後日、この缶を製作したメーカーとの保証の話し合いの中でこれが実に効力を発揮した。PL(製造物責任)法が制定する前であった。
さて、消防車とパトカーまで出動してきっかり30分後には、アパート中を巻き込んで
大騒ぎになっていた。
私はあの時の騒ぎを臨場感をこめて適切に語る言葉を持たない。それほど凄まじかったのである。
妹の子供たちは極度に興奮し、オーマイガッとかなんとか騒いでいるし。
気がついたら、私の家の6畳の狭い洋間に17人も人がいた。17人も!
消防署の人、近所の人、同じアパートの子供が5人。ここで何をしているのか?
親が騒いでいるうちに何時の間に上がり込んだらしい。
結局、その日は夜の11時過ぎまで、私の家には人が溢れ、皆がやがやと騒いでいた。
「時ならぬ、深夜の会合」である。皆、この事態にひどく驚いてはいるけれど、なんか楽しそうである。子供たちはお菓子まで持って来て分け合って食べているし、大人達は好き勝手におしゃべりをしている。
私たちが騒いでいる間にも、消防署の人はてきぱきと現場検証をはじめている。
私は自分でも手持ちのカメラで現場の写真を撮るかたわら、隣のカメラマンのOさんに
頼んで、隅から隅まで、全部写真を撮ってもらった。フィルムにして、3本。
私は学生時代に商業写真をゼミで取っていたが、こんなことで役に立つとは思わなかった。一通り現場検証が済むと消防署の人は帰って行ったが、子供たちは興奮して
寝るどころの騒ぎではない。私は妹の子供たちにあげるつもりで買っておいた
「特大お特用花火セット」を取り出して、子供たちを集めて花火をしてくれるように
近所の人に頼んだ。
その間に妹に頼んで、とりあえず片づけをしたもらった。
そして、同じアパートの奥さんに甥と姪をお風呂に入れてくれるように頼んで
ようやく身体を休めることが出来たのは、もう夜中の一時を過ぎていた。
子供たちもやっと寝た。静かな夏の夜。エアコンの音だけが響いている。
室内の空気が淀んでいるのが気になった。ふだん寝る時はエアコンを付ける習慣がないので、室内を閉め切ったそのせいだと思っていたのであるが・・・。
「ん?」初めは咽喉が変な感じだった。何か、胸につかえたような、変な感じである。
と思う間もなく、突然私は激しくせき込んだ。咳は私の意思に反して、あとからあとから
私を襲ってくる。せき込むたびに、腰に激痛が走った。
咳は私を苦しめた。
私は「非常持ち出し袋」の中に、簡易酸素ボンベがあるのを思い出し妹に頼んで
取ってもらうとそれを吸った。これは、私が地震や災害に備えて「構築」した救急セット
に入れておいたものだ。入院前、ふと立ち寄ったデパートの災害品展示コーナーで
見つけて、一本1200円もしたのであるが面白いと思って買っておいたものである。
私はこれを友達に自慢するつもりで買ったのであって、特に深い意味はなかった。
それが、今、役に立ったのである。酸素は1本で5分も持たないが、2本吸ったところで
呼吸がかなり楽になった。
と思う間もなく、身体に灼熱感を覚えたので調べてみると、体中アレルギーが出ているではないかっ!
私は冷房を止めて、家中の窓を開け放して換気をするように頼んだ。
午前4時。夜明けにはまだ間がある。私は時々襲ってくる咳込みをできるだけ
こらえた。一体、私に何が起こったというのだろう・・・。
何か、私が悪いことをしただろうか?
朝になるまで、私はずっとアレルギーと咳と腰の激痛と闘った。
それは、本当に文字どおり、闘いだったのである。
この続きは、次回の完結編へ。
Copyright(C), 1998-2009
Yuki.
禁・物語の無断転載