《ゆうの大学病院入院体験記》
ゆうは本気で、病院へ行った。《番外編》
ゆうは、本当に災難に遭った。
〜その後のゆう〜
病院に逆戻り(泣)・・・。
翌朝になっても、咳は止まらなかった。時々、発作的に激しくせき込むのがとても苦しかったが、心配する妹を送り出し、私は爆発したスプレー缶のメーカーA社の消費者
相談窓口なる部署に電話をした。
朝一番に電話をしたにもかかわらず、A社には既に消防署から連絡が行ったと見えて
担当の応対はとても丁寧だった。
やはり、昨夜、迷わず消防署に通報したのが良かったのだ。
A社はCMも打っているメーカーであるし、家庭用製品の「それ」に関してはシェアのトップ争いをしているので、社内的にもそういう体制が整っているようである。
「今回の事件」に関しては、営業課長のDが窓口となって全責任を負って解決に当たるという。翌日の昼、家に訪問したいといので、私はせき込みながらも時間の約束をして電話を切った。
午後になって、私のアレルギーはますますひどくなり一時は収まりかけた咳も間断なく
私を襲う。なによりも咳き込むと腰に響いて辛く、涙が出るほどだった。
私は観念して病院へ行った。
つい、この間出てきたばかりなのに、こんな形で病院にUターンするはめになろうとは。
あの日、特上の握り寿司の事ばかり考えて退院した私には予想もつかなかった。
私は、なんと間抜けなのであろう・・・・。咳き込みながら情けなくて涙が少し出た。
病院は土曜だったので外来はもう終わっていた、。
しかし、先日まで手術をして入院していたことなど事情をあらかじめ電話で話していたので救命救急センターの方へ来るように言われて私はタクシーを飛ばした。
この病院に救命救急センターがあるのは知っていたが、その建物に入るのははじめてだった。地域の拠点病院に指定されたここのセンターは最近完成したばかりで建物は
ホテルのように美しく清潔で、まるで外国の病院のよう。入院中は、この建物の近くで
海外からの研修生らしき外国人の姿をよく見かけた。
救急センターには患者の症状に合わせて第三次までが用意されている。
私はそんなに重傷とも思わなかったので、センターの窓口で受付を済ませた。
ほどなく中で待っているように言われて椅子に座っているとまた激しい咳が私を
襲ってきた。私は椅子からずり落ちそうになりながら腰を押さえ咳き込んでいたのだが、
これが腰を刺激して大変な激痛。
救命救急センターは時々子供の泣き声が聞こえるくらいで、しんとしていた。
ここに私の咳き込む「音」だけが響いて、ますます情けなかった。医師はまだ来ない。
しばらく待っていると救急車のサイレンと共にがやがやして来たと思ったら、着衣を血だらけにした中年の男の人が運ばれてきた。その人は、咳き込んでいる私の横をうめきながら運ばれていき、処置室に入って行ったがすぐに運ばれてくるとレントゲン室に入った。中から悲鳴のような声が聞こえてくる。
私はせめて痛み止めでも打ってあげられないのかなと思ったが、看護婦の伯母に聞いたらそういうモノでもないらしい。
その男の人の叫び声が耳について私はたまらなかった。
私の咳はだんだん激しくなり、腰に響くので我慢しているとますますひどくなり息が出来ないほどだった。私が身をよじって苦しんでいると整形外科の外来の看護婦さんが
私を「発見」してくれた。
「あら?どうされたんですか?退院したばっかりでしたよね?」
私が声も出せないで咳き込んでいると「大変」と言って私をベッドルームに連れていってくれて寝かせてくれたので、腰が大分楽になった。
一体幾つベッドがあるかわからないほど広い救急センターのベッドルームは最新の設備が整っているようで整然として美しい。
私は天井を見上げながらこ、このまままた入院になってしまうかなぁ・・と考えていた。
医師がやって来て、診察をしてくれた。随分若い医師である。彼は私を診察しながら
私の胸ばかり見ている。
ここでも私の低い血圧に医師は驚いていたが、そんなことは今、問題ではない。
胸の写真を撮り、一通り診察が終わると医師はアレルギーの薬と咳止めの薬を処方してくれた。
「腰が心配ですね。どうです、よかったら入院しますか?月曜になれば教授がきますし、
精密検査もできますから」
そう言われて私は首をぷるぷる振って入院はもう嫌だとアピールした。
とにかく吸引したものが何か分からないし、毒物であったら早い処置が必要なので成分表をメーカーの人に提出させるように言われた。
もしも駄目だったら病院から連絡してくれるとも言ってくれたので、注射で大分楽になってきた私は一目散に帰ってきた。
もしも、このまま病院で苦しがっていたとしたら入院させられてしまう!
私はそれだけは絶対に、何がなんでも避けたかったのである。「このまま死んでしまうにしても、畳の上で死にたい。」
今なら笑い話であるが、その時は本気でそう思った。それほど苦しかった。
幸いにして症状は大分軽くなり私は心から安堵した。
ただ、咳き込んだせいでせっかく養生していた腰の痛みがずきずきと暴れ出し、これが
眠れないほど私を悩ませた。
多分、今までに経験したことがないような事態を一度に経験してしまったために精神的な痛みもあって、それが腰の痛みを悪化させていたのではないだろうか。
話し合い
翌日の午後一番、約束の時間に遅れて、スプレー缶のメーカーA社の担当者が
やって来た。彼は汗をふきふき、場所がわからなかったと言い訳をしている。
私はこういう場合、加害者は菓子折りの一つでも持参して来るものだと思っていたが、
それもなかった。
ナニヲキタイシテイルノダロウ・・?私は。まあ、Dも会社の人間であるから、会社の決まりに従っただけなのだろう。それは、許すとしよう。
Dは、玄関を入った途端の我が家の惨状に驚いた様子である。
当たり前だ。これで驚かない人がいたら、私はその人にお目にかかりたいと言うものだ。
彼は名刺を出すと「忌憚の無いところで、私どもはなにをすればいいでしょうか?」と
会話の中に盛んに、「忌憚、きたん」を連発する。
私は、この状態を見たでしょう?と言ってむっとした。
とにかく、爆発の原因を明らかにし、ずたずたになって使い物にならないバスルームを
早急に何とかしなくてはならない。
このA社のD課長の話を聞いている、私は本当にビックリしてしまった。
今回の爆発の原因になったその製品は、10年ほど前に製造したものであるが、
スプレー缶の構造そのものに欠陥が発見され、メーカーでは店頭に在るものに関してはほぼ回収が終わっているらしい。ただ、販売されて消費者のもとに行き渡ったものに関しては、販売網が広いこともあって、わずかながら回収しきれないものが残っていると言うのだ。A社としては、欠陥製品の回収を新聞広告などで告知してきたが去年も都内の私鉄O急線の車内で事故が発生したと言う。
そのケースは、会社に在った在庫の「それ」を家に持ちかえろうとした会社員の荷物の中で爆発し、それが反対側に座っていたサラリーマンの手に命中して怪我をしたというのだ。
よりによって、まあ、その製品が私の家にあったと言うわけである。
私は仕事柄、新聞には隅々まで目を通すし、広告も丹念に読む。しかし、その記憶はなかった。しかし、その回収広告を出した時期を聞いて納得した。
その広告が出た当時、私は超多忙な毎日を送っていたのだ。
嘘のようだが二日徹夜をして、少し寝る、、三日で一日しか眠れないという地獄のような忙しい毎日が3ヶ月も続いていたので新聞をゆっくり読んでいる暇はなかったのだ。
ちょうど、傷めた腰に麻酔を打って打ち合わせに行っていた頃である。
とにかくA社は、PL法の成立の前に、このようなケースが今後の参考になるから、
誠意を持ってできる限りの事をさせてもらう。と、言い切って帰っていった。
私はそれを信じた。
内容はともかくとして、その後壊れたものは内装は修理され、駄目になった思い出の製品は、買った時の値段で保証してくれた。しかし、亡き母の思い出の品物は二度と買うことはおろか、手元に戻ってこない。私はわずかばかりの金額はいらないから
もう一度それに触れたいと切に願ったが、それは叶わなかった。何故なら原形を留めないぐらいバラバラに壊れてしまったから・・・。
結局家の修理途中でいろいろな段取りや、なにやら腹が立つことが多かった。
話し合いの中で、在る時など突然本社の人間だという偉そうにした若い奴が大阪から電話をかけて来て、いうにことかいて折り返し電話をくれなどと言ったりしたものだから、私は激怒した。(私が本当に怒ると怖いらしい)
激怒したと言っても、私はわめいたり、暴れたりはしない。静かに怒りの炎を燃やすだけである。そのせいかどうか知らないが、大阪から取締役の本部長というのがやって来て
「定年前の最後の仕事です。この私に免じてどうか、ひとつ。許してください」と謝ったので私は怒りを納めた一件もあった。ちなみに、この部長も「忌憚のないところで・・」と
忌憚を大安売りする。Dといい、この部長といい・・・。どうも、A社ではこの「忌憚」という単語が接続詞代わりに流行っているのではないか?妙な事だ。
私は相手を見て態度を変える人が大嫌いだ。 この自分の父親と同じ年令の「部長」と言う人も、最初私を甘く見ていた節がある。
私はデザイン業という仕事上、日常なるべく生活臭を出さないように心がけているので、
業界外ではもともと童顔の私はなめられることが多い。話し合いの中で、この部長は
保証のための私の収入を聞いて信じられないと言う顔をした。
彼も定年間際になって、世の中は色々な人間がいて社会が成り立っているということを学んだだろうと意地悪く考えた。さうでもしないと本当に腹が立つことが多かった。
なかなか終わらない家の修理にも苛立っていたし、お金のことでもめるのは本当に嫌だったが、会社としては、PL法の制定に向けてそうもいかないのだろう。私は最後にはもうどうでも良くなっていた。私の出した条件は、
1.製品の成分表を早急に研究所から出すこと。
2.全国紙に今回の告知をする謝罪広告を出すこと。
3.修理にかかった費用はすべて会社で負担する。
の三点だった。
1の成分表に関しては、社外秘といって最初は出し渋っていたが、今後このような
類似の事故が発生した場合、被害者へ早急な治療施すためにも必要だと考えて私は譲れなかった。
第一、もう作っていない製品の秘密を守ることと人の命とどちらが重要か、明白ではないか。
それと、医学的見地から明らかに今回のことが原因で私の症状が悪化した場合は、
その治療費を A社が負担するという念書もとった。念書をとってはあるが、これは実際にはあまり効力を発揮していない。何故なら、腰の痛みもどこからどこまでが今回のことに
かかっているかわからなかったからである。しかし、後に私と同じような目に遭った人のためにも、これは必要だと思った。いわば、誠意の象徴のようなものである。
私はヤクザではないので、これを振り回して相手を脅すというようなことは考えもしないが、会社としては随分悩んだに違いない。
しかし、欠陥製品を出したという罰である。大企業であるならば、その存在の意義を
社会的責任から考えて欲しかった。
家の修理にかかった費用、およそ120万円。壊れたものの保証総額24万円。
その他、修理中のホテル滞在費用3日半分。この中に、私への慰謝料はない。
その年の夏。199X年O月×日。全国主要新聞30紙にA社の謝罪広告は掲載された。
もちろん、掲載に当たっては、内容を事前に確認してある。
再び、病院。
私は私を診察してくれた内科の呼吸器専門の教授に、A社から渡された製品の成分表を提出した。さすが、というか。私にはわけのわからない、ただのアルファベットと数字の表も教授には一目瞭然。確かに製品の成分である一部の有機溶剤には、私のような体質の人にはアレルギーを起こすものが入っていると一目で看破した。
幸い精密検査の結果、私の肺には心配していた異常は見つからなかった。
ついた病名は「薬物吸入による急性気管支炎」だそうである。
しかし笑ってしまうのは、あんな悪夢のような状況の中に遭って、尚、私の心肺機能は
正常の同年齢の人より10歳は若いと言われたことである。
医師から「あなたを丈夫に産んでくれたお母さんに感謝することですよ。今度、お礼を言ったらいい孝行になるでしょう」
と言われたが、私は母がもう死んでいなんですとは言えなかった。
この事件のせいで、私は整形外科に加えて、皮膚科、内科にも通わなくてはならず
これはかなり体力を消耗した。
ある日、整形外科の外来で、入院中同室だったTさんにばったり会った。
Tさんは松葉杖を突いているが、元気そうである。髪にウエーブをかけ綺麗にお化粧
しているTさんは闘病中とは別人のように美しかった。きけば、松葉杖がとれたら、
また元の化粧品販売の仕事に復帰するらしい。私たちは偶然の再会に驚き、手を取り合って喜んだ。
私の診察が終わるのを待っていてくれたTさんは、私を病院近くのお蕎麦屋に誘った。
私は注文した「けんちんうどん」を食べながら、退院してから自分の身に降りかかった災いのことをTさんに話した。
Tさんは、私の話を聞きながらひどく驚いている。
私はほらっと言って、自分の頭頂部を見せた。
数々の災難で、私の右側のてっぺんの一房が白髪になっている。これは入院前に無かったものである。
蕎麦屋で飼っているコリー犬が、私たちの席に寄って来てしっぽを振っている。
店内は私とTさんの二人だけだ。
「・・大変だったわねぇ」
Tさんの言葉が私の胸に温かく広がった。
《番外編・終わり》
長い間、御愛読ありがとうございました。
「その後のゆう外伝」があるかも、しれません。ヽ(;゚ー゚)/
Copyright(C), 1998-2009
Yuki.
禁・物語の無断転載