フリージアの花束
その日、私はやわらかな日差しが庭の池の氷を溶かす前に花屋へ出かけた。
開いたばかりの花屋の店内はまだ寒々としていて、ショーケースのとりどりの花も
まだ眠りから覚めたばかりのようにひっそりと香っている。
私は店の奥で開店の準備をしていた若い店員にフリージアが今何本あるが尋ね、
そしてあるだけ全部くださいと言った。
市場から仕入れたばかりで、まだ茎も切り揃えていないフリージアを数えたら
花のついているものはたったの36本しかなかった。
「私は100本欲しかったのに。」
私はちょっとがっかりしたが、それを全部買い占めると店を出た。
フリージアはちょうど一抱えの束にしかならなかった。
私は花束を胸で抱きしめるように抱えて歩きながら花の香りを吸った。
早春の香りが私の鼻腔をくすぐって、私は胸が詰まりそうになって
危うく涙がこぼれるところだった。
「でも・・。売っていてよかった。まだ、フリージアの季節には早いもの・・・。」
履きなれないハイヒールの音がまだ、人気の少ない街に響く。
しかし、その音はいかにも力がない。
私はできればこのままどこかへ消えてしまいたかった。
たった5分の道を私は20分もかけて歩いて来たような気がする。
静かな街の中にあって私の家の前だけが慌ただしく人が出たり入ったりしている。
玄関先で立ち話をしている人、挨拶を交わしている人・・・。
私が花を抱えて家に戻って来ると、早速私に話し掛けて来ようとする人もいる。
私はそれらの人に適当に相づちを打ちながら人を掻き分けて、母の側に行った。
「お母さん、約束のフリージア・・これしか売ってなかったけれど・・・」
瞼を閉じた母の瞳は今や二度と私を見る事はない。
ピンク色の唇からは、もう優しい言葉を聞く事が出来ない。
私は母の顔の周りをフリージアの花で飾った。
その時、初めて言い知れない寂しさと哀しさが私を襲って来て、
私は不覚にも涙を流してしまった。
私は自分が泣いているのを誰にも見られたくなかったので、ずっと下を向いていた。
もしも自分が泣いているのを自分で認めたら、私は叫んでいたかもしれない。
この身体が張り裂けても、私は今日、涙を流すわけにはいかないのだ。
母の顔に自分の頬をつけていたら 、花の香りがぷん私を包んだ。
町中の花屋の花が集まったかと思えるほど、家の中も外も美しい生花で溢れている。
色とりどりの花が春の香りを放つ中、私は旅立つ母を見送った。
真冬とは思えない程の暖かい日差しがともすれば凍えそうになる私の心を包んだ。
この年のこの日は、4月上旬の記録的な暖かさだったそうだ。
平成○年1月27日・・・。
私はかろうじて、自分の足で立っていた。
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