一 音 金 蓮
生きていく事は出会いの連続である。
それは時として、自分はこの瞬間、
この為に今まで歩いてきたのだ・・・そう思えることがままあり
その瞬間をどうやって掴みとり
己のこころの奥に沈ませることが出来るか否かを
突きつけられているのだと痛切に感じる。
そして、それは私にとっては
過去から現在までの生き方を問われていることに他ならない。
ネットで知り合った御坊様の髭さんの念仏の集いの友人である
司空さんの尺八説法に触れる機会があった。
横浜市の「障害者福祉センター・ラ・ポール」のロビーでの演奏会である。
私は同じくネットで知り合い、今は信頼出来る友人として
忌憚のない意見を交わし、時には「精神的な殴り合い」を
闘わせても尚・・・会えば笑いが先に出るという
人生においてなかなか得難い関係の友人の一人(もしくは戦友)である
霊能者の老神さんを誘ってうちのおばきゅうと三人で出かけた。
障害者福祉センターの自動ドアに足を踏み入れた瞬間、
私は言いようのないエネルギーを感じた。
それは、一言では表現し得ないが・・・生きていく上で私がしばしば忘れがちな
自らをして人生を切り開いていく情熱があってこそ
今現在こうして自分が「在る」のだ・・・
そんな意識が固まりとなって渦巻いているような感覚だった。
日常では感じ取りにくいその情熱・パワーのような「もの」は
一体どこからやってくるのだろう・・・
そう思ってあたりを見まわしていたらガラスごしに見えた風景に
私は目が釘付けになってしまった。
演奏会場内にある体育館では、車椅子の人達による
バスケットの試合の真っ最中であった。
私があたりをきょろきょろと見回している時
会場の職員らしき人が手に持っていた急須を取り落とし
あたり一面にかけらが飛んだ。
それは本当に一瞬の出来事であった。
と、床に散らばった陶器のかけらを腰を落として老神さんが拾っている。
館内を行く皆が、何事が起こったのだろろう?と注目するよりも早く
彼の身体は機敏に動いて、粉々になった急須のかけらを
丁寧に拾っているではないか。
私は割れた瞬間をただ受け入れていただけなのに
彼は床に這う様にして丹念にかけらを掌に乗せていた。
腰痛ですばやい行動の取れない私は臍をかんだ。
その光景に固まっている場合ではないのに。
結局、怪我をしないように・・とか床を拭いたほうがいいとか
能書きしかいえない自分を恥じ入るばかりだった。
司空さんの尺八説法・・・
それは、会場の雰囲気に合わせたもので
初めて尺八の音色に触れる人にも受け入れ易い様に
おそらくはある一部分の司空さんの姿なのだろうと
私は推測した。
しかし、話に続く演奏を私は心で聴いた・・・。
と、あえて言いたいのだ。
生きていると喜び、哀しみ、苦痛・・怒りや愉快なことが
日々かわるがわる訪れるものだ。
しかし、長い時間の積み重ねの中で日常に紛れ
次第に忘れていく事の方が多い。
ところが、ある時、ある瞬間に、突然・・・
記憶の断片でしかなかったものがひとつに繋がる事がある。
それは当時の自分の心ではとうてい理解し得なかった真実が
今だからこそわかった・・・というべきか。
ただの、風景の一つに過ぎなかったものが
突然私には意味を持ち、現れ、呑気に生きている自分を
打ちのめす、そんな事があるが・・。
目をつぶって尺八の音色にこころを解放している時に
私の頭を殴り付けるように突然17歳の時の記憶が蘇った。
尺八の音色を生ではじめて聴いたのは
高校の担任の家の仏間であった。
クラスメイトと連れ立って休日に担任の教師の家に遊びに行った時
兼ねてから趣味であると知っていた先生の尺八を聴きたいと
皆でせがんだら、では・・と先生は一曲吹いて聴かせてくれた。
あの時、あの時間を共有したクラスメイトは
遥か未来の今、というこの瞬間に私があの日の記憶を呼び覚まし
そして、深い哀しみを伴って尺八の音色に抱かれているとは
思いも寄らないであろうが・・・。
過ちから起きた事故によって自分の最愛の息子を
亡くしたと語った先生の淡々とした言葉の意味が
司空さんの渾身の魂の叫びのような尺八の音によって
私にはわかった・・・と思った。いや、思いたい。
「一 音 成 仏」
この言葉の意味と背景は、とうていここで語り尽くす
資格も資質もない私は別の機会に譲るが
担任の教師の広い屋敷の、何故、仏間で
子供だった私達に尺八の音色を聞かせてくれたのか・・・
それが、わたしには今やっとわかるような気がした。
もう、忘れていた遥か昔の出来事である。
演奏を聴いている間、私はずっと目をつぶっていた。
すると鮮やかにビジュアルを伴って
さながら一つの物語を編むが如く
春にはぼんやりとしたはかない光・・
夏には芽吹いた命の喜びを祝福するかのような力強い光・・
風に音を立てて揺れるススキの群れを見降ろす秋の薄明かり・・
そして、凍りつくような空にあってさえ、ともに堪え忍んだ冬を
照らすかの如く輝く希望の光・・・
そんな四季折々の月の様々な表情が私の脳裏に展開した。
全ては自分のこころの有り様に響く音色の
美しさ、哀しさ、力強さは
一体どこからやってくるのだろう。
ただの竹に穴を開けた楽器といえばそれまでである。
しかし、そのただの竹に、人のこころを揺り動かす命を吹き込むのは
御坊様・司空さんその人である。
一吹き、その音色はさながら金の蓮の如し。
渾身の魂の湧出・・叫び。
単に楽しむというだけではこのような音は得られないのではないか
音色の向こう側にいろいろな人生が、命の根源が見えてくる。
演奏が終わって、夜にもステージを控える司空さんを
私達三人は独占した。無理を押して申し訳ない・・と思いながらも
それでも時間はいくらあっても足りるはずがなく
心を次回の演奏に残して司空さんと駅で別れた。
広大な宇宙の力を
頭上から取り入れて尺八の音色にうつす。。
宇宙・・パワー・・・・魂・・。
近年、いわゆる「精神世界」というものが巷で流行り、
手段が目的に摩り替わっているかの人達がいる。
彼等が魂の向上を標榜し、好んでよく使いたがる言葉も
しばしば無意味な記号でしかなく安っぽく聞こえることがあるものだが
発する人によって、これほどまで意味を伴った言葉として
厳粛に在り、そして一言にいかに重みがあるかを・・・
司空さんのお話であらためて知った。
しかもそれらの言葉の一つ一つが胸に染み入るように
受け入れることが出来るとは・・・
今更ながら感じ入ることがたくさんあった。
今あらためて思うことは、自分の肉体が今生の仮の物であったとしても
せめて偽りの器にだけはしたくしないと、あらためて肝に命じる事である。
そして、魂が痩せるような生き方ではなく
せめて一つでも多くの真理を得て全うしたいものだと。
しかし、矛盾してはいるけれど真理は一つである。
その方法や表現は、数多くあれども。
髭さんの話に、司空さんの尺八に・・
出会いに感謝したのははじめてではないが
そんな出会いを用意してくれた
偶然という名の神仏・・・がいるとしたら
それに応える為にも私はまた明日を生きて行こう。
※ご注意:タイトルの「一音金蓮」はゆうの造語です。
仏教用語ではありませんので、苦情などを申し出て困らせないでください。
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