夏のかたみに
夜の帳が街に降ろされるいっときの
その空の色が好きだ。
明け方のぼんやりとした薄明かりは時と共に次第に
力強さを増してくるけれど
薄暮に染まった街に映る木立が風に揺れている様は
これから訪れる静寂の闇へ向けてただひたすらに無防備なのだ。
やがて、透明な酒を注いだような光に満ちた月がくっきりと
まだ熱を帯びた地上を優しく見守る。
この年の夏
特別に美しい出来事はなかったし心が震えるような
素晴らしい出来事にも遭遇しなかった。
ため息が出るほど退屈な毎日を送らなければならなかった
自分の環境を思わず呪いたくなるほどに。
もしも自分が持っていたものの偉大さに気がつかなかったら
味気ない日々をただ・・・かみしめる価値もないのを知りながら
行き過ぎていく季節の一つとして
記憶の底にしまい込まれるだけだったに違いないと思う。
その日、真夜中
夏の終わりに抗うように蒸し暑く嫌な夜だった。
私は哀しみに打ちのめされてほんの一瞬自分を見失ってしまった。
どこの誰なのか、何をしているのかしたいのか
どこへ行けばいいのか今までは何だったのだろうか
今いる場所はどこなのか
この世界で自分が生きているわけを私は忘れて途方に暮れた。
恐らく、私は一瞬のうちに自分で自分を殺すことによって
かろうじて自分の足で立っていたに違いない。
そして魂の抜け殻の肉体だけが、
私であることを証明していたにすぎない。
私は心の中で振り絞るように知らずのうちに友人の名前を
叫んでいたらしい。
その時、友人の声が聞こえた・・・ような気がして我に返ったのだ。
私が初めて、初めて人の温もりを求めたのだ
遠い土地に住む友人の声は一点の曇りもなく温かくやわらかに
私の凍えた心に染み渡った。
受話器を握り締めて私はただ涙がこぼれて仕方がなかった。
深夜に私は声を上げて泣いた。
私の張り詰めていた哀しみが裂けて友人の声に覆い被さるように
子供のように泣いてしまった。
電話の向こうの友人は
たった今、私のことを考えていたという・・・
この偶然に助けられて
私は見失った心を取り戻すことが出来たのだった。
もしもあの瞬間、友人の声を聞かなかったら
私は今頃この世には留まっていなかったと思う。
それが日頃の言動と一致せず他人から滑稽だと思われたとしても
自分の誇りの為なら死を選んで行く愚かさを抱えたのが私なのだ。
それなのに私は
友人を求めてまるで赤ん坊のようにあやされるのを望むなんて。
未練たらしい未熟な自分の感情の揺れを恥じながらも
もう一つ新たな自分の感情を発見した。
哀しい時は人を求めてもいいのだということに、
そしてそれを受け止めてくれる友人が私にはいるのだと。
困難を体現してきた友人の心はまるで透明な水晶のようだ。
他人の苦しみを全身で受け止めて
そして一つを語るごとにそこに潜む哀しみを理解しようと
全身全霊を傾けて言葉を選んでくれた。
私に足りない物をたくさん持っているその人を
堂々と友人と呼べることがいかに幸福であるか、誰も知らない。
けれど、これほどの出会いを用意し私に引き合わせてくれた
運命の神に私は素直に感謝している。
まもなく夏は過ぎ去り、夜の闇さえ焦がす熱風は
心地よい秋の気配に取って代わるだろう。
私はこの夏の夜の出来事を決して忘れないと思う。
1000キロもの距離を隔てて一瞬聞こえた友人の優しい声とともに。
Copyright(C), 1998-2009 Yuki.
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