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フリー・アート

クラウトロックとフリーロックの伝説的な人物コンラッド・シュニッツラーのピアノ作品がベルリンで聴ける

オリジナル・ドイツ語テキスト:Wolfgang Seidel
ドイツ語からの英訳:Franco Toma
英語からの日本語意訳:Jin
オリジナルの出版:Jungle World 21号 ­ 2004年5月12日

コンラッド・シュニッツラーの好きな話の一つにグレン・グールドの話があります。この著名なピアノの大家が自ら作曲したものは世間から失望の対象とされて います。なぜならば、彼が作曲したものは、どれもこれも、彼が今まで練習を積み重ねてきた他の偉大な作曲家達のフレーズになってしまっているからです。こ のような問題は、まったく音楽教育を受けていないコンラッド・シュニッツラーには無縁です。彼はピアノの素晴らしさを発見すると、音の世界を長期に渡って 探検し出しました。その探検は、例えて言うならば、自分自身で描き上げた地図や手作りの方位磁石を頼りにして行われたようなものです。この探検を綴った大 叙事詩は、1950年代初頭に機械の見習い工であったところから始まります。作業場では、高音できしむノイズやハンマーで叩く音が複数のリズムとなって同 時に鳴り響き、そのような環境が、彼が音楽家となる最初の火付け役となりました。なお、実際のところ、一日の中で最も美しい瞬間は、終業時間にこれらの音 がゆっくりとフェードアウトするひとときでした。機械の電源を一つずつ落としていく作業は、まるでリミックスの名手が、ミキサーの卓で巧みにミュートボタ ンを押しているかのように思われました。

シュニッツラーの音楽家としての形成過程で2番目のリスニング体験は、ジャズや前衛音楽を流すラジオ番組でした。それらは、世間の普通の人々を驚かさない よう、大抵は深夜に放送されていました。終戦後のドイツでは、灰色の日常生活とは異質な外の世界に関心を持つことはタブー視されていました。コンラッド・ シュニッツラーは、灰色の日常生活から逃れるため、見習い工を辞めて、悪名高い"ぼろ船"に乗り込む契約までしました。ぼろ船で、へとへとになりながらア フリカ中の港を隈無く回るのです。他国の外国人部隊に入隊することを除けば、船乗りは、1950年代の戦後まもないドイツの悲しみから逃れる数少ない手段 の一つでした。

シュニッツラーがちゃんとした形で初めてピアノに接したのは、芸術アカデミーのクラスに出席していた当時、講師のヨーゼフ・ボイスが催したハプニング・イ ベントのときでした。そのイベントは、残った楽器をギャラリー・ブロックに展示する形で幕を閉じました。シュニッツラーは、ボイスがクラスを一般開放した ときに、彼の元で学び始めました。クラスに出席するのに必要な学歴やテストはありませんでしたが、それが芸術アカデミーの規範に反する行為と見なされ、後 にボイスが突然解職されたのは周知の事実です。

しかし、ボイスが難解な奥義とやらを気取ってみせたり、上っ面だけのシャーマニズムを匂わす度に、シュニッツラーは完璧なまでの違和感を感じていました。 船乗りや労働者として世の中を経験した彼にはそぐわなかったのです。「私は職人です。横ボール盤の機械に神聖さなど皆無です。その機械で何ができるのか、 どのように動作するのかがすべてです。」彼は自分のアートにもこのようなスタンスで取り組んでいます。「アートは労働者階級のために仕えなければならな い。」という美辞麗句を述べた生徒はクラスでは浮いた存在でしたが、彼はこの生徒にも違和感を覚えました。しかしながら、自由さこそが大切とのことから、 彼のアートはこのクラスを代表するものとなりました。

1960年代初頭にコンラッド・シュニッツラーはベルリンへと流れていきました。ここは、ドイツの「働いて働いて家を建てよう」というメンタリティーに合わない人々が集う場所でした。彼等にとって兵役の免除や西ベルリンの幽霊経済は魅力的でしたが、そこはベルリンの壁が建設されて以来、東ドイツに支援され ていました。シュニッツラーは活動内容をファイン・アートから音楽に切り替えました。彼の最初のグループ名は、プログラムにはGeräusche(ゲロイ シェ。ドイツ語で「ノイズ」の意味。)と記載されていました。Geräuscheは、パフォーマンスの時間や場所など、ちらしに書かれた以上のことは語ろ うとしませんでした。シュニッツラーがその後在籍したのはTangerine Dream、Kluster(後のCluster)、そしてEruptionでした。これらのグループから脱退した後は、長い間ソロ活動を続けています。 彼は商業的な宣伝を一切行わなかったため、その分、エレクトロニック・ミュージックの分野で一、二を競うほど多作なアーティストになることができました。

1969年、コンラッド・シュニッツラーは数名の友人とZodiak - Free Arts Labというクラブを設立しました。ここはフリー・ジャズ、ブルース、エレクトロニックといった音楽が一体となった場所でした。クラブのハウス・バンドはGeräuscheの流れを汲むHuman Beingで、Boris Schaakやハンス・ヨアヒム・ローデリウス、ディーター・メビウス(2人は後のクラスター)などが出入りしていました。Diedrich DiederichsenはM.N.D.のCD『Westberliner Stadtmusik 1969』のライナー・ノートで次のように述べています。「当時のバンド、Norbert Eisbrenner、Werner GoetzとSven Ake JohanssonはZodiakを取り囲むシーンの一員でした。そのシーンとは正にベルリンそのもので、後に発生するドイツのエレクトロニック・アバンギャルド、特にクラスター、タンジェリン・ドリーム、そして精力的に活動するコンラッド・シュニッツラーを意味します。その得体の知れないUFOのような存在は、初期のピンク・フロイドやソフト・マシンのような世界を感じさせました。」Holger Meins、Bommi Baumann、Karl Pawlaがでっちあげようとした主張は法廷でたわごとをほざくようなものでしたが、Die umherschweifenden Hashrebellen という反政府グループもまたZodiakの常連客でした。この、劇場空間の真下にある風変わりな場所では、恐らくいまだかつて例のない、アートと政治の一体化が行われていました。

Diederichsenは、セシル・テイラーと同時代のニューヨークのジャズ作曲家やオーケストラの活動場所について、「短い間ではあったが画期的だったその瞬間、左翼、アフリカ中心主義者、フリージャズのヒップスター達が一堂に会した場所だった。」と言い表していますが、それはZodiakを取り巻くシーンにも当てはまることでした。とはいえ、彼等はフリー・ジャズには傾倒せず、むしろ英国のAMMやイタリアのNuova Consonanzaのような音楽グループをモデルとしました。Zodiakでシュニッツラーや彼のバンドがプロデュースしたのは「自己流の、世間からは認められない音楽」でした。彼等はミュージシャンではなくアーティストで、ほとんどの人は楽器を弾くことができませんでした。パフォーマーの多くはファイン・アートの出身でした。シュニッツラー本人の他には、Markus Lüppertz、K.H. Hödicke、Bernd Zimmerといった人が例に挙げられます。

彼等はリハーサルのためにベルリン、Moabitのシュテファン通りにあるビルの1階に集まりました。そこは、真上の階にKommune 1という政治コミューンがある場所ですが、リハーサルの音が気になって思わずドアを開けてしまった人は、楽器が弾ける弾けないにかかわらず、誰でも飛び入りで参加できました。そのノリは、フリー・ジャズの連中から見てもやり過ぎといえるほどで、ボンゴを叩くヒッピーが動物園でマリファナ・パーティーをやりながらジャムセッションをするのと、何ら変わりありませんでした。シュニッツラーは、とにかくその手のものを毛嫌いしていました。その後、電子音楽のミュージシャンは、こぞって球面調和的な音楽をやるようになりましたが、一時期それは"Cosmic Couriers(コズミック・ジョーカーズ)"と呼ばれていました。その一方で、シュニッツラーの音楽はというと、ニューエイジのファンが心筋梗塞を引き起こしてもおかしくない程のものでした。それはノイズとも異なる類のもので、音楽として十分練られたものでした。

コンラッド・シュニッツラーはインターメディア・アーティストで、一つのメディアで培った経験や手法を別のメディアにも応用します。しかし、彼はインターメディアとミクストメディアの区別ははっきりと付けています。彼はメディアを完全に切り離します。逆に、自分の音楽に映像を付けたものは、取るに足らないものだと考えています。彼は、曲のタイトルさえも除き、音楽を通してリスナーへメッセージを示唆するなどといったことは皆無です。そういったものは、リスナーが自ら聴き取ることを想定しています。このような理由から、シュニッツラーのお気に入りのプロジェクトは"Music in the dark"、つまり「暗闇の音楽」というわけです。まったく明かりのない中で、できることはただ聴くだけ、ということです。

しかし、シュニッツラーのような人を、一体何がピアノに向かわせたのでしょうか。エレクトロニクスによって、12音音階という制限から解放され、限りないサウンドの可能性を体験した後となっては、ピアノは、制限だらけのものに見えます。しかし、そこでのチャレンジは、進むべき順番を逆行させることでした。それは、いうなれば、エレクトロニクス・サウンドという、束縛から完全に解放されたものを何年もやった後に、細かい音のニュアンスが出せるサキソフォンのような楽器とは正反対の、あらかじめ決められた一定のやり方でしか音を表現できない楽器に移行するということです。彼は考察の末、ピアノの代わりに、コンピュータ制御で鍵盤が動くタイプのピアノを用いることにしました。この機能によって、作曲家は、演奏家の指が鍵盤に届くか、といったことを気にせずに済みますし、また、演奏家が実際に身体を動かしてリハーサルを行うことからも解放されます。

2004年5月14日、ベルリンのギャラリー・ゼロでコンラッド・シュニッツラーのピアノ作品が紹介されます。

英語原文: Free art - In Berlin one can hear piano works of Krautrock and free rock legend Conrad Schnitzler by Wolfgang "Sequenza" Seidel

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