秩父大火の経験から防火・耐火構造を取り入れられた本堂は、
霊場には珍しい瓦葺きの土蔵作りで西洋建築の装飾を取り入れてある。
漆喰の壁の白が眩しく、
境内の覆うような緑が良く映えて、今まで訪れたお寺とはまたひと味違った印象がある。
元のご本尊があったのは、秩父神社(秩父妙見社)の神宮寺であるが
明治の神仏分離令によって住職は神官となり、仏具等は十円で売り渡され
本尊は本寺の十輪寺に「引譲証文」と引き替えられ廃寺とされた。
しかし、地元の人々や観音信仰の信者、巡礼により観音霊場の存続の請願運動が起こり
札所本尊を近くの少林寺に安置することが時の民政役所によって認められ、
札所十五番が復活して現在に至る。
本来の本尊は十輪寺に移されていて、ご詠歌のみが当時のままここにある。
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十五番 母巣山 少林寺 臨済宗建長寺派 【ご本尊】十一面観世音菩薩 【御詠歌】みどり子の 母その森の蔵福寺 父もろともに 誓ひもらすな 【所在地】秩父市番場町7-9
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◆思いがけず前回の打ち終わりの今宮坊でくつろぐ◆
秩父駅には今日も大勢の人が降り立った。バス停に向かう人の流れとは逆に、私たちは
前回終えた十四番・今宮坊を目指して歩き出した。
途中、十三番の慈眼寺に寄り、前回の巡礼で見つけた秩父観音巡礼(発行・満願寺教化部)を
買い求めた。目薬の木のお茶を納経所の人に勧められて飲んだが、わずかに色がついて
いるのがわかるくらいの澄んだ色のお茶で、味は・・・木の味がした。
今宮坊では、地元の人だろうか、朝からお接待をしてくれる人々が巡礼の数と同じぐらい
たくさんいて境内を掃き清め巡礼を迎えるべく立ち働いている。
境内に設けられたトイレもそれぞれ男女別におじさんとおばさんが水をうって掃除しており
トイレ飾られた紫陽花の一輪が瑞々しくも可愛らしい。
ここは、きっと地元の人に愛されて、支えられているのだろうな。
江戸時代、秩父十六ヶ村の人口は1万7000人余、午年のご開帳には多い日で1日に
3000人もの人が訪れたという。受け入れる村はさぞ大変だったろう。
今もこうしてお寺がコミュニティの核となって人々を結びつけ、観音霊場を訪れる人を迎えよう、
盛り上げようという心が受け継がれているのだと思うが、こうしたものは都市のお寺では一部
の人のものになっており、部外者からはなかなか見えにくいものだと思う。
納経を終えて重ね番を戴いた後、あまり喉は乾いていなかったが勧められてお茶を戴いていたら
すっかり和んでしまい、もう本日はここで終わり、というくらいに長居をしてしまった。
●まもなくお寺が見えてくる。
目にも鮮やかな緑の生け垣と幟の赤が美しい巡礼道の景色。前を行くのはj
◆妙見菩薩信仰のある秩父神社◆
既に蒸し暑くたくさん汗をかいていたけれど心は涼やかに本日最初のお寺十五番を
目指して歩き出した。
今来た道を再び駅の方に戻るように進むが、途中お饅頭を売っている店が多く、
私には大変目の毒だ。
前回出来てしまったマメは破れて新しい皮が出来ているが、皮が薄いのか
そこに違和感を覚えて先行きアヤシイ感じ。
でも、何番のお寺まで行かねばならないという義務はないので、まことに気楽ではある。
スタートからしてのんびりとしてしまったので、今日はゆるゆると行こうということになった。
途中、かつて十五番があり、柞(ははそ)の森といわれた権現造りの秩父神社の
杜を眺めながら歩いた。
ここは何度か訪れているが、神仏習合の時代、妙見菩薩信仰があったらしい。
妙見菩薩とは、北斗七星の主神”北辰”(北極星)の神様である。
家の神棚にもここで求めて来た妙見菩薩のお札があってけっこう気に入っている。
神社なのに、菩薩様。こういうのは多いらしいが、妙見菩薩は主に密教の仏様である。
さらに、日蓮上人の前にも妙見菩薩が顕現したという逸話があって、日蓮宗でも信仰の
対象となっているらしいが、私に知識がないので詳しくはわからない。
おそらく法華経に関係する事なのだろうなとは思うが、今のところ推理でしかない。
また、平安初期に成立した、『日本霊異記』にも、すでに妙見菩薩の功徳が述べられていることからかなり古くから親しまれているのだと思う。
全く、世の中は不思議に満ちている。それは実際に生活になんの役に立たないと言う人も
あるだろうが、少なくとも私の生活にはその不思議の数々は彩りをもって私の精神生活を
豊かにするための人生の指針であるわけだな。。
◆緑の中の美しい白が映えるお堂に事件の陰が◆
やがて到着したお寺は、緑の中にお堂が建っているという印象があるほど
本堂の周りはとりどりの植栽で埋まっている。
境内に人はまばらで、ゆっくりと納経することが出来た。
御朱印を戴いて少し境内を見て回った。
ここには、明治12年に起きて明治政府をおおいに震撼とさせた「秩父困民党事件」で
殉職した警官の墓が立てられている。(通称・秩父事件)
製糸業で生活を営んでいた西秩父の農民が明治初期の経済変動の中で困窮し、
秩父自由党の先導のもとに小鹿坂に3000人が集結し梵鐘を打ち鳴らしながら
秩父市内に乱入した。蜂起参加者は、一時は8000とも1万人ともいわれたという。
(詳しくは次回巡礼地スタートの23番に譲ります)
秩父に向かう電車の中で何か胸がざらつくような感覚があって、楽しいはずの秩父行きに
何かとらえどころのない不安があったのはこの為だったのか。
そういえば、以前秩父神社に来たときの事であるが、出発の日の明け方に、
私はボロの衣服をまとい、あかぎれの出来た手で蚕を煮て、一生懸命糸を取る夢を見て
ものすごく疲れたことがあった。なんで、やけにリアルなシチュエーションの夢を見たのか
皆目わからず首をかしげていたのだが、後で私の訪れた場所はかつて養蚕が盛んで
あったということがわかった。その2年後のこの日、その養蚕業の零落をたどり
事件に結びついていくところを訪れるとは全く思っても見なかった。
これも思えば不思議な因縁である。
私という一個の人間の人生の真ん中に流れている大きな河に、何がどんな支流を作り
流れ込んでいるのかはわからないが、今日の日というのも一つの小さな流れに違いない。
生きている上で起こることの意味。それはやがて私が死ぬときにわかるのだろうか。
意味のないことなどないらしいが、私にはその時の私にどうしても分からない出来事と
いうのが少し多すぎやしないだろうか。ねぇ、観音様。どうなんでしょうね。
●霊場としては珍しい白の漆喰塗りの本堂。
白色の壁に貼られた千社札のコントラストが美しい。
●外へ出るお寺の階段。緑に覆われている。
●境内の石仏。緑の木陰で何を思っていらっしゃるのか。
●境内の隅にある権現社