秩父札所の中でも最古のお堂を有する十六番・西光寺は
禅宗の多い秩父札所の中でも珍しい真言密教の寺院であり
市の指定史跡にもなっている。
江戸時代には境内に諸堂を整えて盛んであったらしい。
往年を忍ぶ物として、かつてご本尊が納められていた札堂の土中や
長押(なげし)からは大量の納札(木札)が発見された。
それは江戸とその近郊、遠くは四国や九州のものもあるという。
|
十六番 無量山 西光寺 真言宗豊山派 【ご本尊】千手観世音菩薩 【御詠歌】西光寺 誓いを人に尋ぬれば ついの住家は 西とこそ聞け 【所在地】秩父市中村町4-8-21
|
◆再び今来た道をひきかえす◆
十六番への道は、今来た道を戻る格好になる。すなわち、最初に訪れた今宮坊の
ある方角を目指すことになり、また秩父神社の横を通りながら町の中を歩いた。
この場所はガイドブックによると「ややわかりにくい」と書いてあるのを後で読んだが
前回お蕎麦屋に行った時近くを通ったので、まるで何回も来ているかのような錯覚を起こす。
実際、私たちはこれまでは道にあまり迷うことなく難なくお寺に到着してしまった。
わたしなぞ、出発前にガイドブックなどを一応用意してもあまり読む習慣がないので
「なんとかなるだろう」というかなりアバウトな感じである。
だから、元々あるものにさえ「自分の発見」をして感動するのだが・・・。
中学時代ブンブンというあだ名の鉄道マニアの友人がいて、全国一周プランの緻密な行程と
それを支える数字(時刻表)を見せてもらって頭がくらくらしたことがある。
彼は、この通りに将来廻るんだと自慢していたが、19の時、それを実現させてしまった。
しかし、彼の旅が国内から海外の島国になり、やがてそれがインドの旅に至って随分人が
変わったように思えた。
私は何故かいつも彼が旅から帰って日本に到着したばかり、今帰ったばかりという日に
無精ひげとこ汚い格好の彼に、駅で、あるいは道で偶然に会ったものだ。
家が近くなので肩を並べて帰る道で旅の事などきかされたのだが、旅は人を変えるようだ。
そして、今も、ここに1人、緻密に行程を計算して1人であれこれと心配している人と一緒に
歩いているわけだが、そんな昔の同級生のことを突然思い出す。
●溢れる緑が目にも鮮やかな山門への道を行く。
前を行くのは、いつも緻密に行程を調べるJ
◆霊験記に思う◆
納経を済ませて御朱印を戴くのに時間がかかってしまった。
そこそこの人出で納経所も混雑している。もう既に今日はゆっくりと廻ろうという気持ちから
先を急ぐ気持ちはなくなっているので、境内をゆっくり見て回ることにした。
殆どの人は御朱印を戴くと矢も楯もたまらずという感じで突風のように帰っていくが
境内にあるたくさんの遺構を見逃しているはずだ。これも、「ご縁」の一言なのだろう。
さて、このお寺の縁起(観音霊験記「円比丘」)によるとこうである。
ある夜、当寺の住僧・円比丘が月を眺めていると草むらから1人の老婆が現れていう。
「私は優婆夷だったが、貪欲甚重の報いにより阿鼻獄に堕ちた。何度生まれ変わっても未だに
その業は尽きない。私の子孫にこれこれこういうものがいるから、私の菩提を弔ってくれるよう
伝えて欲しい。この寺に霊験あらたかな観音の像を導くので楽土へ行けるように祈って欲しい」
円比丘が称名念仏を唱え子孫にもそのことを告げて弔っていたところ、他方から観音の霊像が
来たのはこの幽魂が導いたものである・・・。
だそうである。
寺伝によれば、観音像は行基菩薩(668〜749)の作だそうだが、その観音霊験記との関わりが
私にはどうもよくわからない。寺は札所が成立した室町時代より前から当然あったと思うが、
まあ、考え出すとわけがわからなくなるので止めた。
それに・・・。霊像を導くだけの力のある迷える魂でさえ、地獄で苦しむ。その苦しみを
救えるのはただただ観音様のみであるというところに大いに感じ入る物があった。
●大きな酒樽を利用して作った茅葺きの大黒堂
ここにも紙の納札が無数に貼りつけられている。
◆札堂の迫力と威厳◆
本堂向かって右手からやや離れたところに、初期の観音堂といわれる遺構がある。
私たちは、おや?あれはなんだ?と吸い寄せられるようにその古びて歳月にさらされた
お堂に近づいて、じんとともに感嘆の声を上げてしまった。
お堂の柱には無数の釘跡がある。
昔の巡礼は木の札を打ち付けて巡拝した。霊場のことを「札所」と呼ぶのも、巡拝するのを
「打つ」というのもここから来ている。
古の人の釘跡を目前にして私は感慨無量である。
このお堂の長押(なげし)や土中からは大量の納札が出たそうである。
それによると江戸やその近郊のものが多いのは当然として、遠くは九州や四国のものも
あるらしい。
私はここでもお経をあけで、ちょっと失礼して格子の隙間から中を覗いてみた。
扉も何もないので、風雨に吹きさらしになっているらしい。
埃っぽい中に仏様が鎮座されている。
しかし、この無数の釘の跡を指でなぞってみても、鬼気迫るような緊迫感というのは
あまり感じられなかった。長い歳月が人々の想いを昇華させてしまったのだろうか。
それは秩父札所というのが江戸庶民の信仰の対象であると同時に、遊行の地でもあった・・・
というところにもあるのだと思う。
四国の遍路路にあるような、巡礼が行き倒れて亡くなったのを弔ったという塚はまだ
見ていないし、峠に阻まれているとはいえ、全行程が百キロという短さも関係しているだろう。
江戸時代の町家の女は1日に軽く五里(20km)は歩いたと本で読んだことがある。
失礼ながら笑ってしまったのは、巡礼の中には純粋な信仰によらず遊楽気分の者も
いたという証拠が寺にはあるらしい。(拝観不可の隠し部屋があるらしい)
「若いもん」はいつの時代でも年長者の苛立ちの種になるものであるが、その年長者も
若いもんに苦虫を噛みつぶしたような顔をして説教する一方で、自分の好奇心を抑える事が
出来ない人間くさい一面を持っているというわけだ。
ちなみに中年の私を「若い人」と呼ぶ年齢の人でこのお堂をお参りする人は皆無であった。
●秩父札所最古の遺構といわれる境内の札堂。
かつてご本尊はここに祀られていた。
●札堂の柱のアップ。かつての巡礼が納札を打ち付けた無数の釘の痕がわかる。
このお堂からは江戸期の納札(木札)が大量に発見された。
◆回廊堂の模刻ご本尊に驚嘆する◆
本堂と総門を繋いで回廊堂が儲けられており、ここには四国八十八ヶ所のご本尊の
模刻が一番から順番にずらりと並んでいる。
このお堂は浅間山噴火と天明の飢饉の後難加護を祈願して建立されたという。
浅間山といえば、群馬・長野県境にそびえ、今でも噴煙をあげているいわずと知れた
日本で最も活動的な活火山である。私は昭和48年の噴火を覚えている。
北斜面の「鬼押し出し」といわれる所は本当に鬼が住んでいそうな風景で、子供の頃
訪れたとき、そこで拾って来た軽石をお風呂場に置いていたが、鬼が出そうで怖かった。
遠縁のおばあさんが亡くなった時に、居間に置いてあった葬式饅頭の包みのそばにその
死んだはずのおばあさんが立っていて突然消えた。
そんな体験があったので、怖かった私は軽石をザリガニとカニを飼っていた庭の大樽の
砂の中に埋めてしまった。
天明の大飢饉に加えて、天明に起きた浅間山の噴火は人々の生活をさらに過酷で
非情なものにしたという史実がある。それこそ、人々は祈る他に手だてはなかっただろう。
そんな時代背景の中で建立された回廊堂の仏様を見つめていると、今の時代に生まれたという
巡り合わせが実に有り難く感謝をしてやまない。
静かに、決して静かではない現世を見つめている仏様。
このお堂を参拝すれば四国霊場の御利益を戴くことが出来るというが、順に拝観していて
あらためてその数に圧倒されてしまい、四国お遍路の旅の厳しさを思った。
●本堂と総門を繋ぐ回廊堂を出口付近から撮影。
堂内はかなり暗かったが、撮影禁止の注意書きがなかったので試しに自然光で撮る。
ガラスの中に四国八十八ヶ所のご本尊の模刻が一番から順に並んでいる。。
●植え込みにひっそりとあった仏足石を発見。
西国三番・粉河寺からの伝承とされている。