◆波供養◆
私が顔を覆って嗚咽を漏らしてると、餌を食べるのを止めたルナが不思議そうな
顔をして私を見ていた。
病気の彼女が拾われて家に来てから、約三年。日中は殆ど1人と1匹で寄り添うよ
うに暮らしているが、そういえば、ルナは私が泣いてるのを見たことがない。
そもそも私は人前で泣かない。だから、一体どうしたんだろう、という表情で
不安を訴えるように鳴きながら私の側にやって来た。
その日、何気なく四国遍路の紀行を読んでいた。奥さんを亡くした人が砂浜に
奥さんの戒名を杖で書き、波で洗われては消え、消えたらまた書きを繰り返して
いたら魂は冥土に旅立っていったような気がする・・。
という記述を読んでいたらたまらなく何かこみ上げてきてしまったのだ。
秩父巡礼の区切り打ち第一回から帰ってきて一週間。私の中でいろいろな事が
シンプルにあぶり出されて素の自分はもしかしたらここにあったのかもしれない
というような想いを抱いている。
そして、門前の小僧さん以下の何も知らなかった自分を突きつけられている
ところでもある。恥ずかしい私がここにいる。
私は私の徒歩巡礼の記録をここに記しておきたい。
◆深夜の発願 〜哲学を持って人生を生き抜け『巡礼出発三日前』◆
ずっと考えていたことがある。誰でも1つ1つが点に過ぎない事柄が何かのきっかけ
や働きで一つに繋がる感覚というのを持ったことはないだろうか。
私にとっての点は、様々な場所での神仏と私の出会いであった。
そして、そこに至るまでのいろいろな人との出会いである。
それらが今線になろうとしている。
19の夏休み、京都人の祖父・故人に連れられて祖父が青春を過ごしたという
京都市内の寺を何日も歩いたことがある。
それこそ、京都の寺社仏閣は行ってない所のほうが少ないくらいよく歩いたものだ。
私も小さい頃はそれなりに神仏は身近であったが、多少知恵が付いて親の庇護
から身勝手に離れてくると神も仏もいるものかというそんな斜に構えた時期も
あって、その頃仏に手を合わせていてもそれは仏像を眺めるただの観光に過ぎなかった。
自分の中にあるものを押し殺してかろうじて自分を保っていた頃。思えば仕事が
全ての時代もあった。それなりに認められ何日も徹夜で働き抜いたあの達成感は
また懐かしくもある。若かったからこそ出来たと思う。
仕事の絶頂期に母を彼岸に送ってから、私がこんなにまでして求めてきた物はいったい
何なのだろうか・・・とそんな気持ちを抱き次第に仕事をすることに魅力を感じなくなっ
ている自分に気が付いたのもあの頃である。
そして、長年の無理がたたったのか腰を痛めて手術をした。
そしてデザインの現場からフェードアウトしつつ雲隠れ状態の今に至るまで紆余曲折を経て
また再び自分の中にあるものと対峙せざるをえなくなった。
私は自分で一度閉じた門を母が亡くなったあの日こじあけたのかもしれない。
そうこうして、自分の中にある他者から見れば狂気との隣り合わせともいえる
感覚、すなわち霊能を自分なりに逸脱することなく社会とすりあわせ磨いて来た
つもりではあった。
心霊、魂やあの世の実在を信じている人にとってはなんのこともないのかも
しれないが、その最も身近にいるとかえってそのものを自分の心から突き放して
他人の目で見なければやりきれない事がままある。
もちろん、テーマが重すぎて娯楽の対象には成り得ないからその類のテレビ番組も
霊を扱った書籍も私には無縁だ。
そこここで、さまよえる魂のあるいは何か得体の知れないものの声を聞き姿を
みていると哀しい。
そして、彼等は私に訴えてくるのである。この無力な只1人の人間に過ぎない私に。
しかし、日常を神仏の加護にあると確信している私にとって、それらは恐れの
対象には成らず、彼等の苦悩を振り払う事が私のいわば隠れた一つの仕事だと
割り切ってやって来た。
しかし、それには自分の中に「信」がなければならない。
ここの所私は少し疲れていたのかもしれない。
何かが揺らぎかけていたともいえる。そもそも揺らぐような心しか持ち合わせ
ていなかったと今になって思う。
用事で亡き母の兄、伯父に実に久しぶりに電話をしたら何故か
「哲学を持って人生を生き抜け」
「今に至る自分は壮大なご先祖あればこそ、末裔として恥ずかしくない生き方を
考えて哲学を持って学問しなければいけませんね」
などとまるで今の自分を見透かされるような有り難くない小言まで頂戴してしまった。
おかげで、惰眠をむさぼっていた日常に思い切り活を入れられすっかり目が覚めた。
そして・・・。
深夜、突然私はこの世に生かされている幸せを感じた。それは、大きな働きと
はからいと、何かの意思に見守られて困難だと思って来た事柄を乗り越えられた
のだと感じた。
その時突然仏が前よりもいっそう身近に感じられ、私は至福の感覚の中で
秩父を巡礼しようと思い立った。唐突に。
◆成田山新勝寺に結願の祈願へ◆
明日、成田さんへ行こう。私が幼い頃から父に連れられて通った成田山へ。
夜明けまでの夜が長かった。眠れず、こんな事では明日に響くなと考えていたら
目の前に、僧形の人がしきりに衣で涙を拭いている姿を見た。そしてなんだか
わからないが、大きな剣のようなものが現れ、泣いているその姿とオーバーラップ
してそれにつき合っているうちにうとうとして眠ってしまった。
まだ朝の5時前だというのに猫に起こされてしまった。僧形の人を見ながら
最後にトイレに行ったのが三時過ぎだから2時間ほどしか寝ていないことになる。
私は三階で寝ているじんを起こしにいって予定していた電車より早く行けるか
聞くと彼も飛び起きて電車の時間を調べて支度して出かけた。
この日は快晴だった。暑い。始発のバスで出発し電車を乗り継ぎ成田駅に着くと
太陽が眩しく目を開けているのが辛かった。
長袖の絹のカーデガンを通して日光がじりじりと照りつけるから日光アレルギー
の私はたちまち赤くなってくる。
それにしても、ゴールデンウイークの中日、人出は多く山門は黒山の人だかり。
昔からここが人々の憩いのあるいは信仰の拠り所として親しまれてきたのがわかる。
●成田山山門を下から撮る。人山の黒だかりでシャッターチャンスがなかなかない
山門に会釈して口と手をすすぎ通り境内に入るとそこも人でごった返していた。
本堂は言うに及ばず、既に護摩炊きが始まっている。そうこうしているうちに
終わってしまったので私とじんは11時からの護摩炊きのために本堂に入り、
合掌した。私は久しぶりのお不動様との対面で感無量である。
次の護摩炊きが始まるまで私たちは本堂で待つことにした。その間、私は
小さな声でお経をあげ座っていた。
不動の行は圧巻だった。
お不動様の真言を唱えていたら何故か泣けてしまう。私の中からまた一つ
何かの澱みが不動の火焔で焼かれ昇華した瞬間である。
本堂中では護摩炊きが行われている
●大塔・平成不動明王が鎮座されている。なかなかいい感じの空気が流れていた
結局、境内の仏様を順に参拝しお経をあげていたら夕方になってしまった。
寝不足にも関わらず私もじんも充実していた。
その日夜も遅くなって家に帰ってくると、留守番のルナが寂しそうな目で
訴えていた。
◆巡礼前日〜はからいの中で事は進む◆
出発の準備を始めた。なんと、大切な数珠の紐が切れかかっている。
いつの間に、どうしたことだろう。三日前に見たときはなんともなかったのに。
修理の為に数珠を購入した山梨のお店に電話したりしているうちに出かけるのが
遅くなってしまった。
この日、数珠を求めて吉祥寺中を歩いた。ようやく夜遅くになって閉店間際の
仏壇屋で水晶の数珠を買った。予定外の出費である。
ついでに、じんの念珠も予定外の出費であった。
ところで、午後の事であるがデパートの物産展で私たちは築地の出店で
寿司を食べた。私は築地丼というのを頼んだのだが、もれなく魚のあらで仕立てた
みそ汁がついてくる。
その美味しさに舌鼓をうっていたら、喉に違和感を覚えてそれがたちまち激痛に
代わった。どうも喉の奥の方に魚の骨が刺さったらしい。
身悶えしているうちに痛みは激しくなり、じんは心配して救急車を呼ぼう
かとか病院へ行こうという。
それどころではなかった私であるが、実に人間というのは一瞬のうちに
たくさんの事を考えるらしい。
私は子供の頃鯛の骨が喉に刺さったことがあり、泣いた。ところが
祖母が信心していた巣鴨のお地蔵さまのお札を飲まされた途端、不思議な
事に喉の痛みが消えて、翌日医者に連れて行かれたときは何ともなかった
事がある。
その事を思い出し、今ここに母の位牌の側に置いてあるあのお地蔵さんのお札が
あればなあ・・とか、そうだ、先週鎌倉の建長寺で出会ったのはご本尊の
お地蔵様ではないか・・・とか。くるくると考えを巡らしている。
そして、何をやっても駄目でもう明日の巡礼は無理かもしれないと弱気が出て
お不動様の真言を心の中で唱えた時、何かがあがってくる感覚と
共に、血に混じってそれはもう驚くほど太い魚の骨が出てきた。
それは、楊枝ほどもある魚の骨であった。
こうして、小さな事実が積み上がって、人は信仰心を深めるのだろう。
ひとつひとつは、小さな偶然かもしれない出来事。しかし、そこに自分の
心に神仏の姿があるとその人にとっては「奇跡」の出来事になるのに
違いない。はからずも私もそれをまた自分で経験することになった。
本当に、デパートの大混雑の中であの時はどうなることかと思った。
◆眠れない夜
携行品の確認や洗濯、準備をしているうちにいつの間にか深夜になってしまい
結局ベッドに入ったのは1時半を過ぎていた。
朝は5時には起きなければならないのになかなか寝付けない。
かなり興奮しているのだろうと思う。
さっきまでリビングに荷物を広げて支度をしながら
「とにかく行ってみよう」とか、何度も同じ事を言うけれどと前置きした上で
「とりあえず、(本当に歩き抜けるか感覚を掴むために)行ってみようね。」
などと同じ事を言い合っていたのが我ながら可笑しい。
結局、自分自身の不安を払拭しようとすると人は同じ事を繰り返すものらしい。
いや、わたしだけかもしれないが。
ルナもただならぬ気配を感じ取っているのだろう、興奮して廊下を駆け回っている。
本当に連日三時間睡眠で体力が持つのだろうか。