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ブラック

ヴォルフガング・ザイデル(2009年8月29日)
日本語意訳:Jin

- コンラッド・シュニッツラーがリリースした最初のレコードは真っ黒だった。名前はなし。トラックのリストや曲名もなし。何の絵もなし。これは当時、鮮やかなヒッピー・カラーやアールデコの花飾りと共に流行していたポピュラー音楽とは断絶していることの表明であり、人々が発展と考えていたものに一石を投じた美学の思想だった。シュニッツラーの作品『シュヴァルツ』(黒)(*訳者注: 正式なタイトルは『Eruption』。)は、まったく異色なものだった。比較の対象となり得たのは、恐らく、ビートルズのホワイト・アルバムだろう。ホワイト・アルバムのジャケット・カバー・アートはリチャード・ハミルトンによるもので、彼は最初のポップ・アーティストの一人だった。当時、「ポップ」はポップ・アートを意味する言葉で、ポピュラー・ミュージックのことではなかった。ハミルトンは宣伝をイコノグラフィ(図像学)の観点で扱ったアーティストであり、石鹸や音楽の宣伝がアートだと宣言するような広告家ではなかった。シュニッツラーにとって、ただの一色だけに限定することは、あなたが思い付きでやろうとするよりも、もっとずっと意味のあることだった。彼はその表明を『ロット(赤)』、『ブラウ(青)』、『グリュン(緑)』、『ゲルプ(黄)』といったリリースでも続けて行った。それらの音楽は、ある程度共通の基本形式のもとに制作され、まるで工場で動く一連の機械のようなサウンドを形成していた。シュニッツラーは60年代は熟練した機械工だったが、その後、戦後の息が詰まるようなドイツの雰囲気からの脱出を試みて、貨物船のエンジン・ルームで働らき、海を航海していた。

そのため、「アーツ・アンド・クラフツ」運動とか、ドイツの代名詞ともいえるワンダーフォーゲルのような、アンチ・モダンなイデオロギーが典型的なヒッピーの信条になりつつあったときも、シュニッツラーはずっとバウハウスの伝統に留まっていた。バウハウスは、その一歩進んだデザインや建築様式、また、近代的な技術を用いて、大衆のより良い生活を理想としていることでもよく知られている。しかし、バウハウスの人々はまた、彼等の夢に調和するような音楽をも考えた。ラースロー・モホリ・ナジ~ Lázló Moholy Nagyはバウハウスの教授の一人で、新しいメディアや新しい音楽に興味があった。彼は、作曲家が音楽を直接ディスクに刻めるような機械が作れないものかと考え、楽器が不要で、楽器の使用に伴う制限も受けないサウンドを作ろうとした。それは、音楽家がいなくても成り立つため、音楽家がきっちり教えられたとおりに演奏しようと努力するような、教育による束縛とも無縁だった。

コンラッド・シュニッツラーはその同じ問題に対処しなければならなかった。あなたの頭の中には音楽がある。あなたのビジョンの中にあるのは、組織化されたサウンドによって構築された機械だ。しかし、製図に描いた段階から現実のものにすることは困難であることが分かるだろう。まず最初に、技術や経済による現実的な制限がある。シュニッツラーは、西ドイツの汚い裏庭ともいうべきベルリンの西半分に根付いたポップな世界の中心から、ほど遠いところで暮らしていた。壁に囲まれ、少なくとも300キロほどの範囲で東ドイツの領土から隔離されたその都市から、誰しもが離れようとしているときに、彼はわざわざその場所にやって来たのだ。その場所にとどまった人々は、金がないか、または冒険心がないかのどちらかだった。そして、その都市のがら空きになった地区を埋め尽くそうとやって来た人々は、西ドイツの社会への服従から逃れ、生活に金の掛からない場所を見つけたとばかりに喜び西ベルリンに定住した人々だった。誰も十分な金は持っていなかった。もしあなたの頭の中に新しいサウンドがあったとしたなら、あなたは不要品のスクラップでもってそれを作らなければならなかった。なぜならば、新しいサウンド作りにルールも何もないので、何でもありのスクラップを使うということだ。そして、楽器も同様にスクラップで作った。先ず初めに、機材はフリーマーケットで見つけた古いバイオリンを集めることから始まった。初めてドラムスが加わった頃には、ボロのバイオリンはもはや鳴らすこともできなかったので、誰も「バンド」とは呼べない有様だった。その次は、安いマイクロフォンのカプセルを買ったが、それは電話に付ける奴だった。それらをハンダ付けしたのが効を奏して、あらゆるものにマイクロフォンを取り付けて、何らかのサウンドが出せるようになり、機材にすることができた。ビート・ミュージックやロックが初めて流行ったときにもたらされたのは、リバーブ、テープエコー、ファズボックスといった初期の小型な機材をアンプにつなげて、サウンドをエフェクト処理することだった。

60年代の終わり頃、コンラッド・シュニッツラーはクラウス・フロイディグマンと知り合った。彼はプロのサウンド・エンジニアで、レコード会社で働いていたが、売上高やご都合主義のみに音楽が支配されていたことに、日増しに幻滅していった。彼等の機械工とエレクトロニックの合わさった技能こそが、後に、2人を取り巻くシーンから現れたいくつかのグループが残したサウンドの基礎となった。そうしたグループのほとんどは、ゲラウシェ~Geräusche、ヒューマン・ビーイング~Human Being、そしてプラス・マイナス~Plus Minusのように世間から忘れ去られた。しかし、その他に、タンジェリン・ドリームやクラスターのように、今でも人々の記憶に残っているグループがある。(または、現役で活動中だ。)そうしたグループの全員が、創造的なプロセスの拠点とした最初の場所こそが「ツォディアック・フリー・アートラボ」~Zodiak - Freeartslabだ。シュニッツラーは、英国旅行からベルリンに戻ったときに、フリー・アートの実験室のアイデアを思い付いた。劇場のオーナーが彼に許可してくれると確信していたのは、劇場の地下の部屋の片側を白く、もう片側を黒く塗りつぶすことと、1ダースほどのテレビやピンボール・マシンを設置することだった。そこに集まって来た人々は、ある意味、皆変わり者で、政治的に、あるいはアート的に、あるいは性的に、あるいは薬物的に、社会の主流派から外れていた。そこでの音楽は常連によるもので、それは後にクラウトロックと呼ばれたものだったり、多くはフリー・ジャズだったり、ミュージシャンではない人達がノン・ミュージックとして作った完全なノイズだったりした。当時のノン・ミュージックの雰囲気は、Dietmar Buchmannが1969年に制作したツォディアックの映像に残されている。

音楽家ではない人達。これは、もう一つのポイントとも言うべきもので、シュニッツラーとモホリ・ナジのアイデアはそこでも一致した。もしあなたが訓練を受けた音楽家に頼りきっているとしたら、常に彼等が学んだことだけに限定されることになる。この図式から逃れることができるのは、ほんの一握りの人達だけだろう。そうするためには、恐らく、伝統や文化といった、日常生活で必要なものにまったく縛られないような強い信念が必要となるだろう。カール・ハインツ・シュトックハウゼンのように。彼の母親は第三帝国のときに殺された。ゲルマン民族の優越主義を唱え、その病的なビジョンに当てはまらない人々を皆殺しにしたナチの悪夢の中で。サン・ラ~Sun Raは、皆がエイリアンだと考える別の例だ。コンラッド・シュニッツラーは、頭や顔を白黒のコントラストを付けて塗り分けたり、白のレザースーツを着てバッテリーとカセットデッキとミキサーをつないだスピーカー付きのヘルメットを被って街を歩き、自分の音楽を流して「生き生きとしたサウンドの雲」のパフォーマンスを行ない、通りすがりの人々を唖然とさせた瞬間、エイリアンとなった。もしあなたが、古い図式から解放された自由な心を持って、使い方もまだ決まっていない新しい楽器(サウンドを発生させる道具)を触ったら、何か新しい発見をすることだろう。新しい音楽が、アカデミックな音楽に対してではなく、ビジュアルのアーティストに対してより多くインスパイアを与えたのは、偶然の一致ではない。(シュニッツラーは絵画と彫刻をヨゼフ・ボイスと共に学んでいた。)古い図式 - これはクラッシックの訓練を積んだ音楽家だけに当てはまることではない。ロック・ミュージックがまだ新しかった頃は、スリー・コードのギター・ヒーローは自分のことを前衛的だと思ったかもしれない。しかし彼等は、もはや伝統となったワンパターンな音楽でもって、小さな企業と化した状態では、身動きを取ることはできなかった。金が絡んだ途端、ほとんどのロック・グループがそんな状態に陥ってしまった。商業的な成功を追い求める人達すべてに欠けていたものは、ツォディアックの持つ可能性に渦巻くシーンだった。次の時代がやって来たのは、そんな廃れたダンスホールを黒く塗り直した場所だった。金はまったく絡んでいなかったので、そこに集まって来た人達は、皆自由に、契約やコピーライトを気にせず演奏や実験をやっていた。

その絶頂期となったのは、"Eruption"(噴火)という、コンラッド・シュニッツラーが1971年のクリスマス・シーズンに開催したイベントのときだった。当時、パブや映画館は、クリスマスの時期にはどこも閉まっていた。だから、コンラッド・シュニッツラーは、皆がひたすら演奏し続けるジャム・セッションのために、古く寂れた映画館のオーナーが、3日間その場所を貸してくれると確信していた。それ以外に、この手の音楽を人前で演奏する機会はほとんどなかった。ただし、ベルリンの技術大学での討論会は例外だった。あのとき、革新的な政治は革新的な音楽に出会ったのだ。まるで、決して起こることはなかった革命のための、サウンドトラックともいうべき音楽に。あれは無駄に終わったのか? いや、デモやストライキに耳を傾けた人々と、楽器でノイズを作った人々が、共に為した努力によって、少なくとも多少はファシストの亡霊を追い払うことができた。どちらがより重要だったか?革新的な政治の方だ。しかし音楽は、それに至るようなアイデアなど深く考えることなく、容易に再利用したり、売買することができた。

ツォディアックの閉鎖後、次の場所となったのはステファン通りの工場の建物の一階だった。コミューン1とメンバーのDieter Kunzelmann、Fritz Teufel、Rainer Langhans、そしてUschi Obermaierは、学生運動における彼等の役割ゆえに、保守派の「最も嫌いな人」のリストに載っていた。彼等はその建物を借りて、1階をクラブかディスコにする計画を立てていた。コンラッド・シュニッツラーは友人の画家K. H. HödickeやKalle Hausmannと一緒にパフォーマンスを行った。Kalle Hausmannは、ツォディアックに集まった人々の中から結成された別のグループ、アジテーション・フリーとのリハーサルにその場所を使っていた。Rainer Langhansはコミューン1におけるその役割から、どこかで政治的なデモやハプニングがある度に、しだいに世間でその名が知られるようになった。その後、彼はメディア会社を設立することを夢見るようになった。そのため、彼はありとあらゆる種類のクリエーター、画家、音楽家、フィルム・メーカー、ライト・ショーの演出家に働きかけた。しかし、それは最後にはパイプの煙のごとく、ただの夢で終わってしまったのだった。

コンラッド・シュニッツラーの、音楽家ではない知り合いの中に、ある若者がいた。彼は、ツォディアックに出入りし出した頃はまだ学生だったが、後にTon Steine Scherbenのドラマーを短期間務めた。このバンドは、その革新的でアナーキーな音楽パンフレットや空家不法占拠居住運動を支持していたことでよく知られていた。新しいサウンド世界の中で、その若者を魅了したもう一人の人物はBurghard Seiler だった。Burghardは、数十年後にレコード・ショップをオープンしたが、そこではフリージャズやパンクに混じって、ノイズ系のアインシュテュルツェンデ・ノイバウテンを売っていた。その若者、すなわちザイデルは、単なる偶然によってミュージシャンになった。彼は労働者階級の家の出で、あるとき、捨て置かれたドラム・キットに巡り会ったのだが、その頃、彼は何の楽器も持っていなかった。そのドラム・キットは、ある演劇グループが所有していた。それは、初心者の若者や労働者によるグループだった。彼等は演劇のための伴奏音楽を探していたのだが、彼等の演劇は、1920年代の社会主義運動の伝統と、Bread and Puppetグループのような米国の街頭演劇とが合わさったような感じだった。ザイデルの大きな強みは、(学校のビート・バンドで2~3曲演奏したことを除けば)音楽に対して何の知識も持ち合わせていないことだ、というのはコンラッド・シュニッツラーの考えだった。ドラム・キットの元の持ち主はギターに転向した。ザイデルにとってドラムという楽器がまだ目新しかった頃は、速いスピードで叩くことや、ドラム・サウンドを形成するリズム・パターンのテクニックに拘るよりも、もっとずっとテープエコーに頼っていた。彼はバンドのセッションに参加し、そのバンドはRio Reiserと共にTon Steine Scherbenとなったが、Rioは後に、ボーカリスト/作曲家として影響力を持つようになった。シュラガー(ドイツのソフトな流行歌のジャンル)の熟練したミュージシャンからすると、この手の音楽は耐えがたかった。Rioは後に、自伝にこう書き残した。「ヴォルフガングがいつ演奏していたのか、彼がいつ地球上に戻って来るのか、決して誰にも分からなかった。」この2人の組み合わせが長続きしなかったのは、疑うべくもなかった。「Scherben」(彼等はそう呼ばれていた)はどんどん普通のロック・グループへと変貌していき、今日人々の記憶に残っているのは、彼等が音楽的に成し遂げたことなどではなく、ドイツ語の歌詞をロックンロールの表現方法に用いた初期のグループだというだけだ。

同じく、コンラッド・シュニッツラーの知り合いで、小さなサークルに属して、バイオリンでスクラッチ・ノイズを出したり、電子オルガンの鍵盤に金属の固まりを乗せたりして、ひたすらサウンド・クラスターを発生し続けていたのがクラウス・フロイディグマンだった。彼はダンスホールで暮らしていたが、そこでは、ベルリンの長い冬に暖を取ることができなかった。そこで、彼は古い工場の建物に移ることにした。すると、コンラッド・シュニッツラーも一緒に付いてきた。その集まりへの新参者で、とはいえ、いつもいるわけではなく、しかも、いくつかの名前を使い分けていたのはRingoだった。70年代に世の中が変わりゆく中で、あなたが花を投げようとマリファナを吸おうと世の中を変えることはできないのが明白になったとき、彼等は音楽に背を向け、政治に真剣に取り組んだ - クラウスは無断占拠した住居に住んで工場で働き、労働者を組織した。Ringoはニカラグアへ行き、サンディーノ民族解放戦線のために印刷所を立ち上げた。印刷機の轟音は、アドミラル通りにある工場のいつものBGMだった。下の階にある印刷所ではベルリンの左翼系の新聞やちらし、ポスターの大半が刷られていた。その他の人達は政治的な理由はないので残った。

コンラッド・シュニッツラーは、その同じときにベルリンの進化する音楽シーンの中心にいて、他の人達とは距離を保っていた。思うに、多分その理由は、彼はその場にいたほとんどの人々よりも十歳以上年上だったからだろう。彼は戦前の生まれで、戦中・戦後を体験していた。彼には家庭があり、養うために一生懸命働いた。彼の音楽の出発点はラジオから流れてきた前衛音楽だった - それはシュトックハウゼンとヴァレーズの音楽だ。ボイスと一緒にいたときに、彼はジョン・ケージのような人々による音楽のコンセプトを知るに至った。このような背景によって、シュニッツラーの耳には、その時代のロック・ミュージックは、その手のミュージシャン自身が考えていた程、革命的なサウンドには聞こえなかった。まず初めに、彼は、誰もが知っている4/4拍子のハーモニーが展開する音楽を聴いた。そしてその後に聴いたのは、人々が数時間、一つの単純なリフを単一のコードでもってひたすら演奏し続けるものだった。その曲には休符は意図的に入らず、ただ単純化を表現していた。ドイツの音楽家がカール・ハインツ・シュトックハウゼンについて述べるのが流行りだしたとき、シュニッツラーには、その行為は、有名人を自分の知り合いであるかのように名前を挙げて自慢話をすることのように思えた。見るからに、シュニッツラーはそうした人々とも距離を置いていた。他の人々が色とりどりのバティックシャツやアフガンコートに身を包み、長髪を伸ばしていたときに、コンラッドは黒い服を着て頭を剃っていた。

クラウス・シュルツは、タンジェリン・ドリームでドラムを叩き、コンラッド・シュニッツラーと共にメンバーだったが、彼は後にこう回想している: 「シュニッツラーは本当の狂人だった。彼は何もかも破壊しようとしていた。」彼にとってそれがどういうことかと言えば、破壊はコンラッド・シュニッツラーにとっては別の意味を持っていた。彼は一度成し得たことに対して満足できるタイプの性格ではなかった。何らかの方法である種の成功があったと証明するようなやり方で何かを宣伝する代わりに、彼は突き進み、自分の中にあるまったく新しい音楽のビジョンを追っていった。他の人々は、「これは使える」と思ったアイデアのかけらをただ拾うだけで、それを用いて可能な限り売り込みに出向くのみだ。これが、クルスター~Klusterとエラプション~Eruptionの名前を巡る混乱の原因の一つだ。シュニッツラーは、決してグループをビジネスの事業や企業などにはしたくなかった。彼は全員が円になって並んで演奏するような音楽を作った。それは、時間を掛けて、例えば、誰かの演奏に被せて、シュニッツラーが続いてどんな演奏をするか、皆で楽しみにするような音楽だ。時間と金は常に問題だった。クラウス・フロイディグマンは去った。Ringoも去った。ザイデルは印刷所で働き、地下新聞の印刷を引き受けることで生計を立てていた。コンラッド・シュニッツラーはほとんどの時間を独りでいるしかなかった。ツアーに出るのは、独りでは見合わなかった。シュニッツラーはアート・ギャラリーや博物館に隙間を見出した。ごく普通の娯楽を求めるポップな聴衆は、彼の音楽の敵だった。結果として、アート・ギャラリーは彼の最初のレコードをリリースすることになった。René Blockのギャラリーはフルクサス運動に関与し、そこに集まるアーティストのリストは、まるで60年代から70年代に掛けての若いドイツ人画家の紳士録のようだった。音楽とパフォーマンスは常にフルクサスの大きな役割を担っていて、またヨゼフ・ボイスの「ハプニング」でも行われていたので、レコードを制作することは理に適っていた。そうした経緯により、Blockはシュニッツラーのカラー・シリーズをリリースした。

長年に渡って行われてきた数少ないコラボレーションの一つは、ヴォルフガング・ザイデルとのものだった。シュニッツラーが初めてシンセサイザーを買った時、音の持つ可能性への新しい扉を開いた。数年後、初めてシーケンサーが加わり、彼のドラマーとしての経験から、マシンと一緒にドラムを叩くのがいい訓練になると分かったとき、ザイデルにシークエンツァ~Sequenzaというニックネームがついた。テープの箱に彼等はKWという文字と番号を書いた。この二文字はKonradとWolfgangの頭文字だった。シュニッツラーはこのとき、まだKで始まるKonradだった - Klusterのように。アヒム・ローデリウスとディーター・メビウスはデュオでClusterの名前で続けた。彼等は国外で売れるようにKの文字を捨て、コンラッド・シュニッツラーや彼が作ったKlusterのオリジナル・コンセプトから離れていった。あるとき、シュニッツラーは彼のファーストネームをConradに変えることにした。なぜなら、彼は最初の一音節の「Con」で遊ぶのが大好きだったので。それは、CONtactからCONstructionまで、彼のレコードにタイトルを付けるのに、いろんな語呂合わせを可能にした。ある日、誰かがKWのラベルをkilowatt(キロワット)の略だと思った - エンジンのパワーを計る単位だ。さらに、テープは約1時間流れるので、「もう1 kWh(キロワット時間)」というのがよく言う冗談になった。

二人で制作した録音は、ほとんど人目に触れることはなかった。それらは、楽しみとかミュージシャンとしての好奇心といったものもなく作られていた。そのデュオがレコード会社から依頼を受けて制作した唯一のものは、EP『Auf dem Schwarzen Kanal』とそれに続くLP『CON3』だけだった。それらは完全にレコード会社側の誤解によるものだった。レコード会社は、クラフトワークやD.A.F.のようなバンドによるシンセ・ポップの成功で収益を上げようとしていた。レコード会社は、シュニッツラーとザイデルが彼等のもくろみに見合った正しい選択だと信じて疑わなかったが、そのことは言わなかった。恐らくその理由は、二人はすでに自主制作で『Consequenz』の名の下にヒット作をリリースしていたからだと思う - それは、新しいエレクトロニック・ダンス・ミュージックに対する彼等の皮肉を込めたメッセージだった。シュニッツラーとザイデルは、初めてのプロのレコーディング・スタジオで、とても楽しみながら作業した。なぜならば、彼等はこう考えたからだ: ポップ・ミュージックとは、つまり歌だ。シュニッツラーが歌手の役を担い、彼の7つの海を航海した船乗りの日々を語ろう。その後彼等は、何の束縛も受けることのない、泡がブクブク・ボコボコいうような元のサウンドに戻った。

そして1989年となり、東ドイツが終焉を迎えた - そして、それと共に西ベルリンも赤の海(共産圏)に浮かぶ孤島ではなくなった。西ベルリンは観光客を呼び寄せる最大の資源を失い、主流からかけ離れた安上がりな(しかし貧しい)生活の場としてのステータスも失った。コンラッド・シュニッツラーは荷造りをして、嵐が過ぎ去るまでニーダーザクセン州の離れた場所に移ることにした。2~3年の後、彼はその静かな田舎暮らしに飽き飽きしてきた。今日、彼はベルリン郊外のこじんまりとした家で暮らしている。ちっぽけな地下室は小さなスタジオに生まれ変わり、コンラッド・シュニッツラーはすべての機材を手が届くところに置いた。そこで彼は、絶えることのない音楽の流れを生み出している。それは、彼の作品を直接注文する世界中のファンのためだ。そしてたまに、恐れ知らずなレコード・レーベルが、リスク覚悟の上でシュニッツラーの音楽をリリースしている。公な場でのパフォーマンスはコンダクターに一任された。コンダクターは彼の音楽を「カセット・コンサート」という形で紹介している。これはシュニッツラーが1970年代に始めたプロジェクトで、複雑なエレクトロニック・ミュージックをライブで演奏するため、それに伴う制限を克服しようとしたものだった。彼は、テープに記録した「音楽の固まり」を持ち運ぶため、それを詰めるスーツケースを2つ作った。それぞれ中には9つのカセットデッキが収納されていて、選んだテープをその「ツールボックス」でミックスすることにより、新しい音楽を創り出すことを可能にした。その手法はとても効果的だと分かったので、そのプロジェクトは今でも引き継がれている。唯一の変化は、テープがCD-Rに取って代わったことだ。コンラッド・シュニッツラーにとってカセット・コンサートは、本人がその場にいなくても彼の音楽を演奏することを可能にしたものだった。ヴォルフガング・ザイデルはカセット・コンサートのディレクターに任命されたうちの一人だ。

原文(英語):Black by Wolfgang Seidel (29.8.09)

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