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Klusterについて

(2008年4月5日 Conrad Schnitzler, Wolfgang Seidel、日本語意訳:Jin)

私はクルスター~Klusterという音楽グループを創設した。それは私がゲロイシェ~GERÄUSCHE(「ノイズ」の意)というグループを抜けた後のことだ。
(ローデリウスやボリス・シャークと共にやっていた、ツォディアック・クラブのときの話だ。)
1969年から1972年にかけて様々な友人と一緒にやっていたが、その中にはタンジェリン・ドリームもあった。彼等と共に、私は自分のイマジネーションの中にある音楽をやった。
長年ずっと続けているうちに、最後にクラウス・フロイディグマンとヴォルフガング・ザイデルが残った。
それに付け加え、ローデリウスやメビウスと共にいくつかの活動を行ったが、それはKlusterのLP『Klopfzeichen』、『Osterei』、『Eruption』を制作したときの話だ。
楽器やアンプ、エフェクトを私はメビウスに貸した。なぜなら、彼は何も機材を持っていなかったので。
私は、自分の音楽を普通のものに留めておきたくはなかった。自分の中に描いていたものは、フォーク・ミュージックではなく、ロック・ミュージックではなく、ポップ・ソングではなく、ダンス・ミュージックではないものだった。
クルスター~Kluster(後のクラスター~Cluster)のアイデア(私はアメリカニズムを避けたかったのでKで始まるドイツ語の綴りにした)は、グループ名だけに留まらず、音楽のスタイルを表すものだ。
私は、アンプ、楽器、コンタクト・マイク、それにエフェクトを持っていて、他の人にも貸したりしていた。
クラウスはテープ・マシンとマイクロフォンを持っていた。さらに、彼は楽器や電子音の発生器を製作していたが、それらは言葉では言い表せないようなサウンドを生み出した。
ヴォルフガングは、ドラムやベース、アンプ、エフェクトに、ありとあらゆるものをくっつけていた。
クラウスはいくつか部屋を持っていて、そこで私達は音楽のパフォーマンスをやることができた。
タンジェリン・ドリームでやった『Electric Meditation』のテープは、そうした場所で制作した。
ほとんどのパフォーマンスには様々な友人が参加していた。それゆえ、コンラッド、クラウス、ヴォルフガングと友人、というわけだ。
特別なパフォーマンスの場合、私達はERUPTIONの名前を用いた。

コンラッド・シュニッツラー

 

Klusterについて
私はクルスター~Klusterのグループを1969年に創設した。そのアイデアは、インダストリアルなノイズに例えられるような
メロディーのないサウンドを作ることだった。
私には、一緒に演奏する様々な友人がいた。この音楽で金を得ることはできなかった。
それで名声を得ることはなかった。
当時、私はローデリウスとメビウスと出会い、彼等は私のアイデアに賛成してくれた。
ところで、私はミュージシャンではない。私はインターメディアのアーティストであり作曲家だ。
そのときどきによって異なるメンバーのKlusterグループで、私達は何度かライブのコンサートを行った。

 

"Eruption"(噴火)はLPのタイトルだ。
これは私がプロデュースしたもので、LP100枚のリリースだ。後に、ギャラリーBlockがもう100枚、"Blockボックス"のために制作したが、レーベルにメビウスとローデリウスの名前は入っていない。
その後、1996年にジョー(Marginal Talent)がそれをCD化した。
Klusterのグループ - それはまったく性質の異なる演奏家やアーティストによる、数年以上にも渡る複合体だった。しかしまた、クラウス・フロイディグマンも、ときには演奏家として、またはサウンド・エンジニアとして、または楽器の考案者として、ずっと活動を共にしてきた。
彼こそが、Klusterの最後のコンサートをテープに収録した。それゆえ、彼の名は他のメンバーと同等にレーベルにクレジットされた。
ローデリウスとメビウスが抜けた後や入る前にも、私はKlusterのグループで数多くの活動を行っていた。

Klusterは、アヒム・ローデリウスとディーター・メビウスが入る前や抜けた後にも存在した。
Klusterがやったのはポピュラー・ミュージックではなかった。
多くの人々が興味を持ったわけではなかった。
そのため、
Klusterの写真や
ポスターや
チケットや
新聞の切り抜きや
その他、関連のものは
一切残っていない。
それは35年前のことだ。

 

ヴォルフガング・ザイデル Klusterについて
サマー・オブ・ラブ? Klusterは西ベルリンで結成された - サンフランシスコのヘイト・アシュベリーやゴールデン・ゲート・パークよりもシベリアの方がずっと身近に感じた。2年遅れでベルリンにやって来たものは、"サマー・オブ・ラブ"の端切れでしかなかった。花開いた途端、冷戦の風に当たってすぐに枯れてしまった。さらに、1970年になると、60年代半ばを占めていた楽観主義はもう影を潜めていた。髪に花を飾るよりも、もっといい世界を築き上げることの方が必要になったのは明らかだった。しかし、60年代終わりの政治の動向は同じ楽観主義から生まれたもので、生活の物質面だけでなく、アートや音楽、そして人々に影響を与えるマスメディアのあり方に対しても急速な発展を促した。新しいものは去ったが、そのすべてが注ぎ込まれたヒッピー・ムーブメントは、結果として貧困をもたらしたわけではなく、その信念の元、人々にとって十分といえる近代技術を築き上げたのだった。問題は、あらゆる人々に技術が公平に行き渡るようにするにはどうすればいいか、ということだけだった。

その楽観主義には、同じ技術によって生まれたBGMがあった。エレキ・ギター、リバーブ、エコー・マシンから初期のシンセサイザーに至るまで、未来からやって来たようなサウンドであれば当時は何でもOKだった。未来を象徴するものといえば空間移動だった - だから、まるで今まで行ったことがない空間に連れていかれるようなワイルドな初期のエフェクトが用いられたのは、極めて自然なことだった: 人工的なリバーブとエコー。多くの人々がこの新しい音楽に初めて出くわしたのは、映画によってだった - 例えば『禁断の惑星』は、ルイス・アンド・べべ・バロンによる電子音色の強いSF映画だ。(1956年 - 彼等の作品は音楽とは認められず、それ相当の印税の支払いを拒まれたため、保守的なミュージシャンの労働組合との間で言い争いになった。)数年の間、ロック・ミュージックは新しいサウンドとして最も人気を博し、多くの人々に受け入れられるきっかけとなった。それは、前衛派と主流派が同時に人々の関心を呼んだ、まれに見る瞬間だった。ポップ・ミュージックは急速に古めかしい音楽となったが、それは、新しい楽器がエンターテイメントの王道に成り代わったからだ。エレキギターを使うことが、まるで他のあらゆる伝統的な楽器を使用するのと変わらない程、当たり前のこととなった。

そのような人々の中にいてKlusterを結成したのは、共にポップ・ミュージックへの幻滅を募らせていたクラウス・フロイディグマンとヴォルフガング・ザイデル、そして、彫刻家というまったく異なる分野からやってきたコンラッド・シュニッツラーだった。他の人がサイケデリック・ミュージックによって新しいサウンドの領域を開拓している最中に、シュニッツラーはシュトックハウゼンやケージなどのファンだった。しかし、ドイツでは、この手の音楽が漂わせていた高い教養を身につけたエリートっぽさには、近寄りがたい感じがあった。そのため、初期のロック・ミュージックでは、自力で新しいサウンドを探究して、20世紀の前衛音楽を構築していたのだった。

Klusterが手作りの楽器で創ったシンプルな音楽は、例えば同じ音符を30分間ドローンや絶え間ない大騒音でもって演奏し続けるといったものだが、それは原始回帰の類を意味しているわけではない。私達はボンゴを叩くヒッピーや、彼等の持つ"健全な"部族社会への退行願望が大嫌いだ。(飢饉、戦争、迫害は今年になって初めて発見されたものではない、ということを彼等は忘れているのだ。)私達にとって、甘いメロディーに憧れることは、世界は甘くないという現実から逃避する行為だ。私達は時代を逆行したくない。もし未来が回避できないものであったならば、むしろそれを自発的に形成していきたい - 少なくとも音でもって。私達はスローなテンポを好むが、それは時々ダークな意味に間違われることがある。私達は、単に、あらゆるサウンドに十分な時間を与え、個々の音を聴きやすくしているだけだ。また、「見ろ、俺の速弾きは最速だ。」と言わんばかりにステージで観客を魅了するギター・ヒーローとの間に線引きをしたかった。私達がやったことは、ポップスや大衆的な伝統音楽の枠組みを排除して、身の回りにある道具を磨いて油を差し、それらでもって未来の新しい音楽のためにできることを見出すことだった。

しかし、あなたの心がどれだけ未来に向かっていようとも あなたの胃はこの地球上に留まっているので腹が減るわけだ。70年代に世の中が厳しい状況になると、KlusterやEruptionの名前の元に集まっていた人々は、皆、生活のために仕事を探さなければならなくなった。コンラッド・シュニッツラーは長い航海ともいえるソロ活動を始め、クラウス・フロイディグマンは無断居住者の運動に参加し、その他の人々はごく普通の仕事をしながら、時折新しい音楽を作っては姿を現した。残ったものといえば、いくつかのテープと数分間の映像だが、この映像は、コンラッド・シュニッツラーが1970年にギャラリーBlockで行ったインスタレーションのドキュメンタリーで、Klusterの元になったアイデアを投影したものといえる。ノミ市で安売りしていたバイオリンにコンタクト・マイクが取り付けられていて、それが、壁にくっつけられたアンプ(ラジオ)に接続されている。その場を訪れた人々(ミュージシャンでないことが望ましい)は、弾いたときにバイオリンから直接響くサウンドと、アンプ代わりのラジオを通したサウンドが入り混じった「音の固まり」を実験するのだった。

原文(英語):About Kluster by Conrad Schnitzler and Wolfgang Seidel (5.4.08)

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