十七番定林寺、かつてはここが札所の一番であったという。

        ここもまた無住の寺で、近在の人々が守ってきたという。

        境内は狭いながらも塵一つない。

        縁起によれば、昔、坂東で勇名をはせた壬生良門という武将がいた。

        横暴で家臣を困らせたので林太郎定元という忠臣がこれを諫めた。

        しかし、主君は怒り、妻子とともに林太郎定元を追放してしまう。

        定元は縁者を頼みこの地まで来たがすでに亡く、妻も定元も死んでしまう。

        残された子は僧空昭が育てたが、ある時狩りに訪れた壬生良元がそれを知り

        悔い改めて、遺児に旧領を与えて林源太郎良元と名乗らせ、堂宇を建て

        名字からふたつとって定林寺としたという。

        寺は代々林家によって守られていたが、北海道に移住してしまったという。

         

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        十七番 実正山 定林寺 曹洞宗

        【ご本尊】十一面観音

        【御詠歌】あらましを 思ひ定めし林寺

                鐘きゝあへず 夢ぞさめける

        【所在地】秩父市桜木町21-3

         

         

        ◆早めのお昼をとる◆

        十六番の西光寺を出て、当然十七番のお寺を目指すのだが、お蕎麦が食べたくなった。

        まだ昼には30分以上もあるのに、突然お腹が空いて、空いて仕方なかった。

        あとで考えると何かに取り憑かれているようにお腹が空いてたまらなく、私は駄々をこねて

        前回訪れたこのお蕎麦屋に是非入るのだと、ここは頑固を通す。

        「しぶしぶ同意した」という感のあるじんも、実はここのお蕎麦を楽しみにしていたのを

        私は知っている。

        昼前だというのに結構混んでいて、あらためて人気のお蕎麦屋さんなのだとわかった。

        お蕎麦を戴くたび蕎麦アレルギーの髭の和尚さんに申し訳ないと詫びつつ蕎麦の美味しさに

        舌鼓を打つ。おそらく一生詫びながらお蕎麦を食べる私たち。

        リュックの中にはまだ家から持って来た玄米のおにぎりがあるので、ここはもう一枚食べたい

        ところだが、我慢した。そして、そば湯を飲んだりしてまたもやゆっくりとくつろいでしてしまった。。

         

        お蕎麦屋を出て巡礼道に入るところから、秩父市の名物となっている通称ハープ橋を

        眺めて写真を撮った。

        この時はまさか、帰りにこの橋を向こう側から延々と渡ってくることになるとは思わなかった。

        残る体力の全てを奪い取られるかのように思えた、橋の上の道行き。

        この時は、遠目に眺めて無邪気に凄い大きな橋だと喜んでいたものである。

        行きはよいよい、帰りはこわい。。。

        何も知らないと言うことは、素晴らしく愚かで素敵だ。

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        ●秩父市のシンボルとなったハープ橋とも呼ばれる秩父公園橋(全長530m)を
        秩父駅よりから撮る。

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        ●こういう道標が大変有り難い。「お寺センサー」に確信を与えてくれた。

         

        ◆地味にして華麗な本堂◆

        住宅と梅林に囲まれた細い路地の突き当たりに、十七番の定林寺はある。

        その一角だけまるで気を放っているかのような雰囲気がある。

        一見地味に見える本堂であるが、その昔、内陣は華やかに彩られていたというのが容易に

        想像できる。

        今はもう色あせてしまったが、往年はさぞ華麗な美しさを見せていたに違いない。

        とりどりの豊かな色彩に満ちたお寺という空間に、当時の人は浄土を見、いずれ自分の

        行きたい場所として信仰を強めていったのだろう、

        しかし、歳月の経過とともに生の色が消えて、心を打つような洗練された美しさというのも

        あると思う。天井や欄間の彫刻がまさにそうだ。

        私はこういうのが大好きなので、納経を終えた後、首が痛くなるほどみとれてしまった。

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        ●本堂の欄間の花鳥透かし彫り。色は褪せているが美しい。
        天井にも花鳥画が描かれており、往年にはさぞ美しかっただろうと想像出来る。

         

        このお寺の境内はほんとうに狭いが、木陰に椅子がいくつも置いてあって、

        それぞれ人が休んでお弁当を広げていたり本を読んでいたりしている。

        ここに来るまで何度か見かけた人もいる。

        今日は団体以外では中年以上の一人歩きの男の人が多いなと思った。

        小さいお堂であるが、見るところがたくさんあって楽しい。

        本堂の裏にある家で御朱印を戴いて戻ってくると、じんが、「来てみてご覧」というふうに

        私を手招きする。何か「発見」したらしく実に嬉しそうだ。

        本堂の裏に回ってみると壁から綱が出ており、

        「これに触れて南無観世音菩薩と三回唱えてください」とある。

        この綱は観音様のお厨子と結ばれているそうで、見逃しがちな「大発見」である。

        私たちが出てくると、後から来た人もおや?後ろに何かあるみたいだよ、といいつつ

        ぞろぞろとこちらにやってきた。

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        ●ご本尊。撮影禁止の札はないが、もちろんフラッシュはたかないで撮った。

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        ●本堂は回廊作りになっていて、その裏側。観音様のお厨子と結ばれている綱がある。
        私のは綱引きみたいと笑われた。
        手袋を忘れたのでこの生白い手が後で・・まもなく日焼けで悲惨なことになる。

         

        ◆哀しくも厳しい時代を背負って生まれた梵鐘の由来の事◆

        本堂の向かって右手に梵鐘がある。当初のものは江戸の大火で損傷してしまい、昭和に

        入って再鋳されたものであるが、鐘には百観音のご本尊とご詠歌が刻まれている。

        その由来は、女の私には哀しみと寂しさを伴って、胸に棘が刺さったような痛み共に

        切なさでうっかりすると大声を出して泣いてしまいそうになる。

        その由来によれば・・・。

        昔、臨月にもかかわらず巡礼を続けていた女がいた。女は子を産んだが、その子を

        油紙にくるんで近くの沼に捨ててしまった。そして、なおも巡礼を続けて結願して

        家に戻ってみると捨てたはずの子供が土間にいた。

        驚いて土間を掘り返してみると、そこには定林寺のご本尊の姿があった。

        女は自分の行為を悔やんで梵鐘を作り、寄進する発願をしたという。

         

        「間引き」、「子返し」といわれて、それらが近世まで行われていた事は随所で聞く話しだ。

        寺の境内や床下などに埋めると、生まれ変わってくる事が出来ると信じられていたらしい。

        農村を襲った飢餓が自分たちの努力を超えてどうしようもないほどに日々の営みを圧迫して

        いた時代、それは当たり前のように起きたのだろう。

        我が子を手にかけざるを得ない苦しみは、想像を超えて余りある。

        この由来に男の側の話は出てこないが、女1人で巡礼を続けるのはそれは大変な事だろう。

        身ごもった身体で巡礼するということ自体自殺行為にも等しいし、その女の無謀とも思える

        発願の底にあったであろう感情を勝手に想像してしまい、悲しくて泣けてくる。

        罪業を女の身一身に背負わせる政、社会とは一体どういうものだろうか。

        それでも尚、いや、だからこそ観音様は救ってくださるというのである。

        しかし私は、哀しくてやってられない。

         

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        ●県の文化財に指定されている鐘。全国百観音の本尊が浮き彫りにされている。
        江戸の大火で損傷したが、宝暦8年に再鋳されたという。

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        ●鐘の一部アップ。定林寺の部分。
        仏様とともにご詠歌が彫られている珍しいものだそうだ。

         

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